ある日を境に
家にいることが多くなった母。


父と一緒になって以来、
一日中、家にいることなどなかったはずだ。


それほど忙しく働いていた母が
毎日のようにそばにいる。


子供だった私は
そのことを少し不思議に思いながらも
ただただ、嬉しかった。


同級生と同じように
学校から帰れば母がいて
「お帰り。」と迎えてくれる。


そんなことが
無性に嬉しくて嬉しくて
その頃の母の気持ちを察することなどできなかった。



いま思えば、その時期は
少しづつ、
人員整理をしていた時期だったのだろう。


「お母さん、お母さん」
とじゃれつく子供の私は
どれだけ鬱陶しかったことだろう。




騒動の中、
バタバタとあわただしく高校受験を終え
私は中学校を卒業した。


抱き合って別れを惜しんでいる同級生のなかにあって
ひとり、涙も流さず
どこか晴れ晴れとした顔をした私は
ほんとに可愛くないひねくれものに見えたことだろう。




母や父の気持ちを考えるよりも
ゼロから出発するまっさらのこれからに
ワクワクするような
純粋な期待だけがあった。




校庭の八分咲きの桜は
すべてをリセットできる期待にすこし微笑んでいるわたしを
祝福するかのように
力強い生命力にあふれていた。






祖母が声を押し殺してないている。
時折、細い肩がちいさくふるえる。




真っ白なレース糸で編んでくれたお花の形のコースター。
おけいこかばんにいれてくれた水色の「さかな」の刺繍。


冬にはまっかになるしもやけでふくらんだまるくてやわらかい手。
いつもえがおだった 頬に刻まれるかたえくぼ。
サラサラと揺れるまっすぐな黒髪。


一月二十六日、
正月気分もすっかり抜け
あいかわらずの寒さときぜわしさはあるものの
やがて必ず訪れる春の気配をそろそろと探しはじめる季節。





たったの二十三年。

たった二十三歳で逝ってしまった。






不思議なことに
その前後の記憶が
すっぽりとないのだ。




結婚式の白無垢姿はくっきりと鮮明にあるのに

なぜか
葬儀の記憶はない。




義理の妹をまるでほんとうの妹のように大切にしていた末っ子で育った「母」や
父親代わりだった「父」がどこでどうしていたのかも
まるで記憶にない。







ふと見上げると
真っ暗闇の中からふいにあらわれ
めがけるように落ちてくるボタン雪が
頬に落ちてはとける。
口の端に溜まった雪の最期を舌で舐めたらすこしだけしょっぱかった。





そして

それ以来
祖母があんな風にないている姿も
見ていない。





誰もが助言し,
誰もが母に忠告した

「離婚」という選択を、

かたくなに拒否しつづけた母。



そのときの私には
まだ子供すぎてわからなかったけど。


そしていまでも
「あのときに別れようとはおもわなかったの?」
という私の問いに
母はただコロコロと笑うだけで
答えてくれようとはしないけれど


自分の財産をすべてつぎ込んでまでも
一緒に働いてきた「仲間」を守ろうとした父。


そんな父を
月並みだけど
誰よりも愛していたことだけは
「大切な人」を得た今の私なら理解できるのだ。





そして
気の遠くなるような莫大な借金と
後に唯一の父の宝物となった
社名の入った金属製のプレートだけが残った。



頑固で正直者の父は
周囲の誰もが薦めた破産宣告をすることもせず、
この後(のち)、
実に20年以上かけてこの借金を返済していくことになる。



父、46歳。
母、43歳。