人生逃げるときも追いかけることもある。それはちょうど鬼ごっこのようだ。鬼に追いかけられ、ひたすら逃げる。そして鬼になったら、今度は追いかける。追いかけるより、当然逃げる方が楽だ。鬼に見つからないよう、上手く振る舞えばいいし、休む事ができる。ただ逃げてばかりいれば、楽しい訳では無い。鬼にならないという安心を手に入れることが出来るが、自分が何か主導しているという達成感は少ない。

一方鬼は大変だ。追いかけてもみんなが逃げる。鬼から交代するという目標に向かって邁進し、鬼でない人より素早く行動し目標を達成しなければならない。でも、鬼のほうが楽しい場合もある。ただ逃げているより、自分で苦労して目標を達成しようと心を一つにすることに意義を感じることもあるからだ。特に体力に自身があって素早い人は、鬼が楽しいと思うであろう。


人生振り返ってみれば、時には追いかけたり、にげたりの連続だった。ずっと追いかけ続けるのは、目標を達成するには必要だが、辛くなる。疲れたら、追いかけるのを止めて逃げるのも大事だ。逃げるのは力の温存だったり、モチベーションの向上だったり、充電になるが、一方で、自分が主導することで大きな達成感や満足感を得ることにならない。逃げてモチベーションが上がってくれば、鬼として参戦し直す、そしてそれに疲れたり行き詰まったりすれば、また逃げる、人生はその繰り返しであろう。


ただアラカンにもなると体力もなく、気力も薄れてくれば、鬼はしんどくなって来る。また鬼のようにがむしゃらに目標を達成する必要も無くなるかもしれない。であれば追いかけることも必要もないし逃げることも必要が無くなってくる。でも人生というゲームから退場するわけでもない。


その時に鬼ごっこでもあった、「お豆さん」という制度が意味を持つ。お豆さんは鬼ごっこには参加できるが、タッチされても鬼にならない。お豆さんは、小さい子が大きな子と一緒に遊べるよう、タッチされると鬼になるルールを免除される。体力がなくても、体力のある大きい子の邪魔をせずに、ゲームに参加できる。


高齢者にもなれば、お豆さんになって楽しくゲームに参加する事もできるであろう。隠居するとはそういうことかもしれない。ただそれでいいか?はよく考える必要がある。仏教で言う生死は、お豆さんでなく普通に鬼ごっこに参加し続ける、ということだからだ。追いかけるのがしんどくなり、逃げることが多くなったアラカンにとってはお豆さんは魅力的だが、活力を失うことにも繋がりかねない。


鬼ごっこは体力的に辛いからお豆さんでも、他の体力のいらない頭を使うゲームに参加すればよいのかもしれない。そういう工夫ができるよう第二の人生を見つけるのがアラカンの目標なのであろう。そういう自分も模索中である。


人生には「流れ」がある。「行く川の流れは絶えずして元の水にあらず」と言うように、人間は「淀みに浮かぶ泡沫」であり、流れには逆らえない。要は生死の宿命には逆らえない「大河の一滴」である。それは個々の生き物は種の保存のための枝葉の一つである以上、しょうがないことである。


そのようなポケットに最後は落ちるパチンコ玉でありながらも、多少は寄り道ができる。その程度の自由は与えられている。特に人間は、自我という肉体とは独立した仮想的な制御システム(散逸構造)を持つことが出来るようになり、川の流れに逆らう事が出来るようになった。それは物理的な意味もあり精神的な意味もある。


物理的な意味においては、遺伝子操作や再生医療、人口知能の活用など、寿命を伸ばしたり、人口を爆発的に増やしたり、自らのエゴのために必要以上に地球環境に変化を与えたり出来るようになった。それは科学技術と経済活動の発展のお蔭である。


精神的な意味においては、哲学や宗教、心理学や文学の世界が示すように、避けられない物理的な宿命から開放された自我の確立した。フランクルが言うように宿命とは独立した価値を人間は見出すことができて、それは誰にも邪魔されない精神世界を形成することが出来る。それは仮想的な自我の世界ならではのことであるが、ある意味肉体が滅んでも足跡を残すことが出来る様になった。


宿命は個々の人間がそれに抗う上では不自由であるが、カントやパスカルが言うように自らの欲求を物理的な煩悩から、倫理的な欲求に転化することで不自由から開放されることも考えられる様になった。

仏教の世界も、苦楽という不自由からの開放を、倫理的な意味へ転化することで実現しようとしている。


「流れ」は、身を任せた方が良い時も、更に漕いで流れに乗ったほうが良い時も、踏ん張って流れに逆らった方が良い時もある。身を任せれば安心安全を生むし、逆らえば大変ではあるが、強靭な力を蓄えられるかもしれない。そこに正解はない。


しかし共通して言えることは、流れを意識することである。若い頃は力があるからそんな必要もなくがむしゃらに良いのかもしれない。また流れは、明らかかもしれない。


アラカンにもなれば、流れは、複雑で読みにくい。周りの状況もそうなってくる。そこで大事なのはまず流れを常に意識することである。そうしてその時々に最善の行動をすれば良い。力が弱く感じれば、流れに乗ることも多くなるであろう。でも抗う必要があることもある。


そこで意識するのは、肉体的に弱くなっても精神的には弱くなってないことである。むしろ人生経験が豊かであれば、どちらかといえば精神的に抗う力は強くなっているはずである。肉体と精神を連動させない自由を人間は持っている。それを忘れてはいけない。


その上で流れを常に意識することが大事だと思う。そうすれば自分で自分を死ぬまで制御し続ける事ができるであろう。




体験×冒険を意識するということは、風を意識すると言う事だと思う。二千年以上前のコヘレトの言葉も言っている。
北風に逆らう事で力を貯めて、南風に身を任せて風に乗る。

ヨットであれば逆風こそコントロールできれば航海で距離を稼げるチャンスではないか?

南風も北風も無風も暴風雨も楽しめる人生で有りたい。

ホモ・サピエンスが生まれた頃、この種には明確な目標があった。生き残りをかける戦いである。アフリカの草原で生まれたご先祖様は、決して体力的に恵まれているわけではなかった。周りにいる大型肉食獣の危険に常に晒されて、またその当時何種も居た他の猿人達との争いに勝たなければならなかった。


ご先祖様は生き残るために、集団を形成してコミュニケーション能力を使って、弱い面を補った。そして道具というモノを味方にする知恵を持った。そこには想像力と試行錯誤があったことだろう。また敢えてリスクを冒して冒険をする必要があった。


火を使うことはその最たる例である。動物にとって怖いはずの火を利用して調理する。その発明により消化に悪いイモ類を摂取して、大量の糖分に変えることが出来るようになった。それが大脳の肥大化に繋がり、ますます想像力とコミュニケーション能力を手に入れた。


言葉と文字というデジタル表現が出来るようになりコミュニケーション能力が飛躍的に伸び、スキルの伝承も出来るようになり、文明が生まれた。


それも常にリスクを冒しながら新しい道を切り開き、実践することで成果を得る、その繰り返しだったのであろう。


それがアフリカ大陸から、全世界への大移動に繋がった。別にアフリカ大陸から出なくても、種の保存は出来ただろうに、人間は敢えて困難な道を選び、それを克服するためにさらに新しい世界を生み出す事になる。


それは飽くなき安全安心の追求と言うことも出来るが、それこそ冒険に価値があったと言えると思う。それにより社会経済、科学技術、文化などが発達した。


現代に目を向ければもう物理的な移動は世界中1日で可能だし、ネットを介したら数秒で繫がる。それでも人間は新たな世界を切り開いて、そこ身を置こうとし続ける。


新しい世界を見つけることに限界はあるのか? まだ、戦争など野蛮なことを国家単位でやっているのだからそうではないのであろう。まだまだ、個別最適での安心安全を追求して、個々の煩悩に執着している。それはまだまだ個人レベル、家族レベルの安心確保もままならない人たちが大勢いるからであろう。


結果温暖化問題など、地球レベルの安心安全は一進一退である。我々の冒険心を手向ける方向を変えていかないといけない。自分の安全を顧みずに火を最初に使ってみたご先祖様のように。そのような冒険は高等な冒険である。単純に効率と経済性を重視するわけではないからだ。


もう一度手触りのある体験を重視するべきだ。仮想世界は効率と経済性を生み出すが、それは脳の一部だけを使うことに他ならないからだ。冒険の方向性を仮想世界や演繹的な論理の世界に限定するのは危険である。帰納的な振る舞いに冒険の原点があり、そのヒントは我々のDNAにある。ご先祖様を少しは見習ったらいかがであろうか?そこには脳の全てを目一杯使うもっと強い人間がある気がしてならない。その強さを忘れて、上辺だけで新しい世界を作り出そうとしたら、それは止めなければならない。



人間は安心を求めて生きているとも言える。


赤ん坊の頃は、お母さんの胸の中で安心を得る。安心を求めて泣き、安心な眠りの中で成長する。


少年期も青年期も安心がなければ成長できない。衣食住もそうだが、心理的にも大人の保護がないと、うまく成長はできない。


大人になって自立しても安心を求める。今度は自活するための安心、自ら家族を作り将来の安心を得る。お金を貯めて、将来の衣食住の生活基盤を確保する。教育資金を貯めて、子供が自活できるよう、それで安心できるよう取り計らう。


そのような考えや行動は全て安心を求めた結果の行動である。


アラカンになって、子どもの心配やジョブセキュリティの心配が減っても、親の介護や自分の老後など、安心に関する課題は尽きない。今度は自分が安心して死ねるよう終活に余念がない。


さて、このように安心を求めても、涅槃寂静のような永遠の安全を手に入れることはできるであろうか?いくら蓄財して経済的には安心でも、それが涅槃寂静のような安心なのだろうか? それは、違うはずだ。安心を目的にして求めること自体、不確かなもので、それが不安に繫がるからだ。不安にリミットはないのである。


でも絶望することはない。人間は安心だけをもとめているわけではないからである。安心と反対の方向として、冒険を考える。


冒険とはあえてリスクを冒して、一時的に安心を放棄する代わりに、冒険しない時より大きなリターン(安心)を得る。それは敢えてリスクを冒さないと大きなリターンを得ることができないからだ。更にリターンを大きくする要素として創造性というものがある。人間は大きな大脳を持つことで様々な独創的なツールを作り出した。


私達のご先祖様は、そうやってツールを作り出し、リスクを冒すことで、大型肉食獣やネアンデルタール人のような他の人類に生存競争で打ち勝って来た。調理の火の利用、道具を使った狩り、言葉や文字を使った仲間とのコミュニケーションなど、個々のご先祖様は弱かったからこそ知恵を働かして生き残ってきた。


ご先祖様がリスクを冒したのは、ホモ・サピエンスは安心安全とは到底言えない弱い立場にあったからだ。結局リスクを冒すのは安心安全を手に入れるためであった。


そのDNAは今も健在であり、今もなおリスクを冒しながら、科学技術や経済を発展され、新しい生活様式や経済の仕組みにチャレンジしている。それによって得られるリターンによって、個人当たりの生産性は向上し、生活レベルは上がり、開発途上国と先進国の経済格差は小さくなっている。それでも経済的な優位性を得るために、国同士は争い、少しでも生産性を上げるために人口知能を使って新しい経済の仕組みを模索している。もう地球上には生存競争で勝つことが必要な他の種の生物は居ないはずであるが、それでも遺伝子操作やAIによるウェルビーイングの追求など、少しでも安心安全が長く続くよう努力に余念がない。しかしそれは必須かといえば、無くても大丈夫ということも出来る。要は人類は既に安心安全を求めるというより、リスクを冒して創造性を働かしてチャレンジすることに価値を見出しているのではないか? リスクを冒して、流離う、大移動を経験したDNAがリスクを冒して流離うことを推奨する、それは成熟した個人の余生の過ごし方に通じる。


安心安全を求めるのではなく、リスクを冒して冒険を楽しむ、体験を味わうことに価値を置くことができれば、それ自身が安住の地ということはできないか? キャンピングカーに乗っている旅をしている感覚があれば、もう一段深い人生の意義に到達できるのではと思う。