ホモ・サピエンスが生まれた頃、この種には明確な目標があった。生き残りをかける戦いである。アフリカの草原で生まれたご先祖様は、決して体力的に恵まれているわけではなかった。周りにいる大型肉食獣の危険に常に晒されて、またその当時何種も居た他の猿人達との争いに勝たなければならなかった。


ご先祖様は生き残るために、集団を形成してコミュニケーション能力を使って、弱い面を補った。そして道具というモノを味方にする知恵を持った。そこには想像力と試行錯誤があったことだろう。また敢えてリスクを冒して冒険をする必要があった。


火を使うことはその最たる例である。動物にとって怖いはずの火を利用して調理する。その発明により消化に悪いイモ類を摂取して、大量の糖分に変えることが出来るようになった。それが大脳の肥大化に繋がり、ますます想像力とコミュニケーション能力を手に入れた。


言葉と文字というデジタル表現が出来るようになりコミュニケーション能力が飛躍的に伸び、スキルの伝承も出来るようになり、文明が生まれた。


それも常にリスクを冒しながら新しい道を切り開き、実践することで成果を得る、その繰り返しだったのであろう。


それがアフリカ大陸から、全世界への大移動に繋がった。別にアフリカ大陸から出なくても、種の保存は出来ただろうに、人間は敢えて困難な道を選び、それを克服するためにさらに新しい世界を生み出す事になる。


それは飽くなき安全安心の追求と言うことも出来るが、それこそ冒険に価値があったと言えると思う。それにより社会経済、科学技術、文化などが発達した。


現代に目を向ければもう物理的な移動は世界中1日で可能だし、ネットを介したら数秒で繫がる。それでも人間は新たな世界を切り開いて、そこ身を置こうとし続ける。


新しい世界を見つけることに限界はあるのか? まだ、戦争など野蛮なことを国家単位でやっているのだからそうではないのであろう。まだまだ、個別最適での安心安全を追求して、個々の煩悩に執着している。それはまだまだ個人レベル、家族レベルの安心確保もままならない人たちが大勢いるからであろう。


結果温暖化問題など、地球レベルの安心安全は一進一退である。我々の冒険心を手向ける方向を変えていかないといけない。自分の安全を顧みずに火を最初に使ってみたご先祖様のように。そのような冒険は高等な冒険である。単純に効率と経済性を重視するわけではないからだ。


もう一度手触りのある体験を重視するべきだ。仮想世界は効率と経済性を生み出すが、それは脳の一部だけを使うことに他ならないからだ。冒険の方向性を仮想世界や演繹的な論理の世界に限定するのは危険である。帰納的な振る舞いに冒険の原点があり、そのヒントは我々のDNAにある。ご先祖様を少しは見習ったらいかがであろうか?そこには脳の全てを目一杯使うもっと強い人間がある気がしてならない。その強さを忘れて、上辺だけで新しい世界を作り出そうとしたら、それは止めなければならない。