人生には「流れ」がある。「行く川の流れは絶えずして元の水にあらず」と言うように、人間は「淀みに浮かぶ泡沫」であり、流れには逆らえない。要は生死の宿命には逆らえない「大河の一滴」である。それは個々の生き物は種の保存のための枝葉の一つである以上、しょうがないことである。


そのようなポケットに最後は落ちるパチンコ玉でありながらも、多少は寄り道ができる。その程度の自由は与えられている。特に人間は、自我という肉体とは独立した仮想的な制御システム(散逸構造)を持つことが出来るようになり、川の流れに逆らう事が出来るようになった。それは物理的な意味もあり精神的な意味もある。


物理的な意味においては、遺伝子操作や再生医療、人口知能の活用など、寿命を伸ばしたり、人口を爆発的に増やしたり、自らのエゴのために必要以上に地球環境に変化を与えたり出来るようになった。それは科学技術と経済活動の発展のお蔭である。


精神的な意味においては、哲学や宗教、心理学や文学の世界が示すように、避けられない物理的な宿命から開放された自我の確立した。フランクルが言うように宿命とは独立した価値を人間は見出すことができて、それは誰にも邪魔されない精神世界を形成することが出来る。それは仮想的な自我の世界ならではのことであるが、ある意味肉体が滅んでも足跡を残すことが出来る様になった。


宿命は個々の人間がそれに抗う上では不自由であるが、カントやパスカルが言うように自らの欲求を物理的な煩悩から、倫理的な欲求に転化することで不自由から開放されることも考えられる様になった。

仏教の世界も、苦楽という不自由からの開放を、倫理的な意味へ転化することで実現しようとしている。


「流れ」は、身を任せた方が良い時も、更に漕いで流れに乗ったほうが良い時も、踏ん張って流れに逆らった方が良い時もある。身を任せれば安心安全を生むし、逆らえば大変ではあるが、強靭な力を蓄えられるかもしれない。そこに正解はない。


しかし共通して言えることは、流れを意識することである。若い頃は力があるからそんな必要もなくがむしゃらに良いのかもしれない。また流れは、明らかかもしれない。


アラカンにもなれば、流れは、複雑で読みにくい。周りの状況もそうなってくる。そこで大事なのはまず流れを常に意識することである。そうしてその時々に最善の行動をすれば良い。力が弱く感じれば、流れに乗ることも多くなるであろう。でも抗う必要があることもある。


そこで意識するのは、肉体的に弱くなっても精神的には弱くなってないことである。むしろ人生経験が豊かであれば、どちらかといえば精神的に抗う力は強くなっているはずである。肉体と精神を連動させない自由を人間は持っている。それを忘れてはいけない。


その上で流れを常に意識することが大事だと思う。そうすれば自分で自分を死ぬまで制御し続ける事ができるであろう。