(抜粋)
軍事と経済のバランスが崩れたことは人類にとってもっと重要な問題なのかもしれない。考えてみると古くから人類社会に対して、商業は自由を、軍隊は規律を、宗教は慈悲を、それぞれ教えて互いに反目しながらバランスをとってきた。

そしてそのバランスが決定的に崩れて第一番目だけが異常に肥大してしまっているというのが現在の姿であり、没落した残りの二つの機能を何かで補わねばならないということが、大きな課題として残されている。

ひところ生命科学の分野で「利己的遺伝子」という考え方が流行した。つまり遺伝子は生物のために存在しているというより、遺伝子自身のために存在しており、遺伝子にとっては生物というものは、遺伝子を伝えて存続させていくために次々と乗り換えていく乗り物のようなものに過ぎないという考え方である。

そして考えてみるとこの考え方は、金や資本というものに対してもっとよく当てはまるのではあるまいか。つまり金という生き物の目からすると、企業や社会というものは一種の乗り物に過ぎない。そして彼らは自分を肥らせてくれる乗り物を選んで乗るのであり、逆に言えば企業が潰れる時というのは金という乗客に乗り捨てられる時だということになる。

歪みが長く蓄積すればいずれ資本主義は自壊してくれるだろうと期待しても、この新しい乗り物探しを続ける資本の力に等しいだけの別の力がどこからか調達されない限り、資本主義それ自体が滅びることはない。

つまり社会主義とは違って資本主義は「倒れる」ことがないというのだから、結局資本主義は、もっと別の巧妙なシステムをその上に建設することによってしか制圧できず、その新システムによって時間をかけて封鎖する以外に手はないことになる。

実際もしそれが「最も原始的であるがゆえにそれ以上壊れようのないシステム」だとするならば、たとえ金融システムが何度壊滅しようと、その都度懲りずに元通りの形に再生してしまうであろう。問題は、それが果たして人類にとって本当に良いことなのかが大いに疑問だということである。

(コメント)
規律と慈悲が今ない状態なのか。
遺伝子とお金が同じ視点で捉えられているのも面白い。
資本主義はこれ以上壊れることのないシステムということは要はわかり易いということだとおもうのだが、そこから人類がみんな幸せになるためにはそこからエイッってみんなで規律を守って一工夫加えていかないといけないということなのだろう。

ソフト開発も実は似ているところがあるんだよね。
大きなソフト開発だとなおさらなのだけど、これ以上壊れることのないソフト開発方法のレベルから一歩規律を作って抜け出すとスムーズにいきみんな幸せになる開発軌道がある。
どこの軌道で運用するかは、その会社の良し悪しを決めるのだけど、なにぶん、そういう軌道があるってことをしらないと、わざわざエネルギーかけてみんな動かないわけで。
別の巧妙なシステムをその開発の上に建設する案ないかなぁというところだよね。
(抜粋)
資本主義の将来の命運について考えてみたい。それがどんな結末をたどるかについては、現在のところ大まかに言って二つの見解に分かれているようである。

一つは、資本主義というものは経済の最終形態であって、今後もこのまま発展を続けるだろうというものであり、米国人のかなりの人々がそれを信じている。もう一つは、資本主義はそのあまりにも不安定な基本構造から行き詰まり、やがて自壊するだろうというものである。

ここで一つ経済学者から見れば気違いじみていると見えるような見解を提出してみたい。すなわちそれは「資本主義とはその外見とは裏腹に、実は最も原始的な社会経済システムなのであり、それ以上壊れようがないからこそ生き残ってきたのではないだろうか」ということである。

伝統社会の指導者たちに言わせれば封建社会とは、むしろ金銭の力が社会を腐敗させることをいかに抑え込むかを目的に設計された、それなりに高度な「文明」なのであり、そして「資本主義の発展」などは実はその文明の堤防が崩れていく退歩の過程に過ぎないということになるだろう。

それならなぜそれが負けていったのかということであるが、それは進化論的な優勝劣敗の原則で淘汰されていったというよりも、むしろ現実には軍事力で経済力を抑えつけることが次第に困難になっていったためだと言った方が真実に近いように思われる。


(コメント)
柔よく剛を制すとあるが、資本主義は剛を倒すのに必要な条件を備えていたということか。
(抜粋1)
今のイスラム型の話では、事業家と出資者の間で「利子」という言葉が一度も出てきていないことに注目されたい。実際このように、商業がもつ不確実性を借り手と貸し手が共同で背負うという約束がなされている限り、「確定した利子」などという概念は基本的に成立し得ないのである。

ではどうして現代の経済社会ではそういう、落ち着いて考えれば本来少々おかしい、貸し手が一方的に有利になる体制を選択しているのだろうか。その理由は簡単であり、要するにその方が遥かに投資資金を集めやすいからである。単純に言ってもし一方が、あなたのお金を全くリスクなしで必ず明記された利率だけ増やして差し上げますと言い、もう一方がそれを保証しなかったとすれば、前者の銀行に金をもっていこうと思う人が増えるのは当たり前の話である。

(抜粋2)
イスラム世界も近代化の過程で70年代に「無利子銀行」という名でこれを現代に再生するという挑戦を、その豊富なオイルマネーをバックに試みた。

これは西欧型のいわゆる「銀行」と違い、どちらかといえば投資信託に似たものである。

そしてこの預金には利息は確定されていない、というより一応原則的にそれはゼロであると規定されている。そして基本的に預金者にはその金がどこに投資されるかが通知され、もしその事業が利益を生んだ場合、その利益が配当金という形で預金者に分配されるのである。( そして恐らく元本は保証されていない場合が多いはずである。)

このシステムは現在でも結構それなりに機能しているようだが、ただし無論、金融の主力として西欧のそれを脅かすような存在にはなっていない。その理由は、言うまでもなく預金一つ一つを別個に扱っていかねばならないという、その手間の煩瑣さであり、それゆえ西欧型の効率に比べると到底太刀打ちできないのである。( ただし、ひょっとしたら将来、イスラム世界へのパソコンの普及が、その弱点をカバーしてしまう可能性が存在しており、その点で将来はちょっと未知数ではあるが。)

少なくともこれは、イスラムの社会制度全体の中に置かれてはじめて機能するものであり、コーランに利息の禁止が明記されていること、市民の余剰金に「喜捨」という別の選択肢が与えられていることなどと組み合わせることによってのみ、安定して機能すると考えるべきものである。

そんなわけで、法理論や常識がどうだろうが、経済システムの側はもうその体制から容易に後戻りができないのである。しかしながら、西欧資本主義側がそういう歪んだ常識からスタートしてしまったことの原因には、どうもカルヴィンの鋳型の存在が感じられなくもないと思うのだがいかがだろう。


(コメント)
イスラムは社会を高血圧にしない仕組み要するに利子の禁止をコーランのもと徹底的に実施されているようだ。

資本主義経済だと資金が集まりやすい西欧型のほうが得策なわけだが、ここでやっぱりコーランが効いているのかなぁ。

毎日お祈りするようだし、神の言葉そのものであるコーランを意識しないってことはなさそうだ。

国によって宗教が違って信じるものが違うといろいろ多様なものが存在するなってかんじ。