(抜粋)
一次産品・資源産出国は、北側工業国が工業製品で上げた利益に匹敵する額を一次産品の輸出で稼ごうとしたのだが、原材料をたくさん掘って市場に出すと、それらはどんどん値下がりし、どれほど豊富な資源をもっていようと、それらは買い叩かれるばかりで、国はどんどん貧乏になる一方であった。

それとは対照的に、資源の不足に対する脅迫観念をもっていた日本のような国は、そうした一次産品の値下がり傾向のため、ただ同然の値段で原材料を仕入れてくることが可能となった。

その一方で、輸出している加工品の方は値崩れの危険が迫ってもすばしこく動き回って位置を変えることができたのである。つまり輸出品の価格レベルが維持されたままで、輸入品がどんどん安くなっていくわけだから、北側工業国はほとんど特別に何もしなくても( 少なくとも南北間貿易では)黒字がどんどんたまっていく構造になっていたと言っても過言ではない。

低開発国は、先進工業国との競争を避けて工業部門からは撤退し、例えば国の特産物がカカオ豆であったとするならば、工場用地を潰して片っ端からカカオ畑に作り替え、国中でカカオ豆の栽培を行って外貨を稼ぐという基本戦略をとった。

ここまでは良い。ところがもし近隣諸国の中にもカカオの栽培に適した低開発国があったならば、やはりこの国もIM F から同様の勧告を受けて軒並み大増産に走るため、それらが一斉に市場に溢れてパニック的な値下がりを起こし、経済計画は壊滅的な総崩れに陥ってしまうのである。そしてこれから体勢を立て直そうにも、もうその国はカカオ以外何も作れない体制が定着しており、他の攻め口はなくなってしまっているのである。

もっともそれを批判する側としても、何ら有効な手立てを提示できるわけではなく、むしろこれは国際経済というものが上っ面は共存共栄の平和な「地球村」ということになっているが、その下の真相は物理的兵器を用いないだけの苛烈な戦争そのものであるという、その宿命的な真実が露呈したというだけのことである。

(コメント)
機動力とは、他社と競合する商品を回避するような選択肢を選び取ることができ、そこに迅速に移動できることを示すのだろう。

原料とかはどこでも産出できるものであるならば、いろんなところで産出すればするほど値段が安くなるというのは理解できる。

それとPCとかカメラとか発売されてからすぐ値下がりしたりするけど、値下がりされるころにすぐNEWモデルの発表あるよなぁ。あれが機動力に相当するのかなぁ。
(抜粋)
国際政治の点から見ても農業に経済を依存する国は、商工業で成り立っている国に主導権や支配権を奪われている。もちろんそれは一つには農業国がハイテク兵器の生産能力を持たないという弱点があるからなのだが、仮に軍事的要素を全部切り離して純粋に経済的な闘争を行なったとしても、なお農業国の側は弱者の立場に立たざるを得ない。

このあたりが、現在の社会体制が恐らく制度として最終的なものに違いないということの一つの論拠ともなっている。

この、産業が次第に第一次産業( 農業) から第二次産業( 工業) へ、第二次産業から第三次産業( 商業・サービス業) に移行していくという事実は割合に古くから知られていたところであり、その最も古いものはウィリアム・ペティの「政治算術」( 1 6 9 0 年) に記載されたものから始まっている。

それをとって、これは経済学の世界では「ペティ・クラークの法則」と呼ばれているが、ではなぜこのように農業は商工業に敗退していくのか。

過剰生産による値崩れの危険が農業より大きいにもかかわらず、工業の側は機動性が一桁高い分、ある品物が値下がりして儲からないと見るが早いか、それをあっさり見限って撤退し、別の品物や別の市場を開拓してそこに主力を移してしまうのである。

そして工業のもつこの特性は、商業においてはさらに増幅された形になっている。

つまり農業と商工業の対決においては、農業の側がほとんど伸びない需要と中途半端な速度で伸ばせる供給という、最悪のコンビネーションから成っているのに対し、商工業の側は、供給の伸びの速度が速過ぎるという不利を抱えながらも、ゴムのように伸縮自在の需要がその不利をカバーしている。

(コメント)
工業や商業はもちろん居場所をパッと変える変わり身の速さと変われる先があって始めて機動力といえるのだろう。

もし先がなかったりそもそも見つけられなかったりしたらいけないわけだろう。
(抜粋)
この数十年間に企業の中に設備投資の形でどんどん溜まっていったのは、実際にはその多くは省力化で人件費を減らすためのコンピューターと産業用ロボットだったのであり、結果から言うとそれがもたらしたのは地球環境の物理的な破壊ということ以上に、世界中で労働者を生産現場から不要とし、またそれと同時進行する形で製品の値段をどんどん低下させていくことだったわけで、実は現在われわれはまさにそれを眼で見ているのである。

そしてそれがさらに光ファイバーで世界中でつながって、労働力が国際的に流動化するとなると、中国とインドの膨大な労働人口の参入とコンピューターによる省力化の相乗効果で、下手をすれば「社会にとって本当に必要な仕事」は極端な話、その中の1 ~ 2 割の人数でまかなうことができ、世界中が光ファイバーの上でそれを奪い合うということになりかねない。

そして以前にこの章で述べた「プロテスタンティズムの倫理」の話にしても、当時は単なる学問的な話題だと思っていたのだが、こうなってくると必ずしもそうも言っていられなくなってきたように思われる。

以前にこの章でも述べたように、この根本となったカルビンの思想はもともと相当に大きな問題点を抱えたものだったのだが、今までは世界に技術的なイノベーションが連続的に訪れて、それがどんどん新たに仕事や職業を生み出していたため、その欠陥はさほど表面化してこなかった。

その前提があればこそ、先ほどの「プロテスタンティズムの倫理」の自助の精神や、個人個人が経済的に自立した存在であるべきだという、社会観が成立していたのである。

ところがそれを推進した結果、先ほどのような世界が出現し、もし「本当に社会に必要な仕事」が世界の2割程度の人数でまかなえて、それを光ファイバー上で全員が奪い合うようになったらどうなるだろう。

そうなると、残りの8割に「プロテスタンティズムの倫理」の自助の精神を説くことは、もはや不条理を通り越して人類社会の悲劇と言ってよい。

しかしこれは資本主義の社会的制度と二人三脚で社会に深く根を下ろしているため、あるいはわれわれは社会倫理の定義そのものを最初からやり直さねばならない状況に追い込まれつつあるのかもしれない。ただしその場合、それをどのラインまで後退させれば良いのかの判断は非常に難しく、歴史を遡ってそれらを参考にしながら適正点を探っていくことが必要になるはずで、いずれにせよこのことは、今後言論界が採り上げねばならない重要テーマになってくると思われる。

とにかくこれらを見ても、現代世界で光ファイバーとコンピューターが爆発的に普及したことによる「二段式ロケット」のような大変動は、恐らくそのぐらいの覚悟をもって眺めるべきことなのであり、そのためこれに関することは、後の章でもあらためて末尾の加筆部分の中で何度かふれていきたい。

(コメント)
ここのところ公開しようか迷ったのだけど公開することにしました。
全体の2割しか本当に社会に必要な仕事がないなんて、それって人間社会が成り立たないわけで、それは反対に資本主義の限界として受け止めなくてはいけないような気がするのだけど駄目かなぁ。
二段式ロケットの一段目の自由経済の思想をどうにか変えていかないと、反対に8割の大人数は見逃せないわけだし。。