(抜粋)
イスラム社会も商業社会である以上、現代と同様に投資という行動は活発に行なわれていた。ではそれが現代の資本主義とどう違っていたのかというと、そこには「貸し手は借り手と平等にリスクを負担する」という原則が設けられていたことである。

これは一見したところ当たり前で、わざわざ書くまでもないことのように見えるが、ところが現代の資本主義は一般的に言ってそうではないのである。

リスクは原則的に借り手側が一方的にかぶって、貸し手側のリスクはゼロであるべきだとされているのであり、たとえ事業が不可抗力でどんな状況に陥ろうと、貸し手側は利子が明記された証文を振りかざして、約束は約束だとばかりにそれを全額支払うことを要求する権利を有している。

(コメント)
実作業に携わる人も出資者も同じ仲間としてリスクを負うべきというのがイスラムで、実作業に携わる人がリスクを負うべきというのが資本主義。

資本主義は、出資者に有利に働くようになっているということ。
(抜粋)
1)軍事力の基盤を確保するための資本主義
これを代表するのは、( 特に今世紀初頭までの)英国である。海軍力を用いて国防するということを国家の指針としてきた。

そして一般に海軍力というものは勇猛な兵士よりも艦艇の建造費が重要になるのであり、経済力に依存する面が強い。そしてマンパワーの少ない英国としては、そうした技術力の優位によってしか大陸側の陸軍国に対抗できなかったため、その国防力の基盤としての経済力には、他の国よりも切実な関心を払わざるを得なかったのである。

実際アダム・スミスの「国富論」には「国防は経済に優先する」という言葉がたびたび登場し、またそれは政策当局者にとっての共通認識でもあった。そのため、たとえある人物の事業の動機が露骨な金儲けであっても、それが英国経済、ひいては国防予算の確保に役立つものである限り、英国政府はしばしば積極的にその後押しを行なったのである。


( 2 )アメリカン・ドリームの舞台としての資本主義
これについては別に詳しく述べる必要はあるまい。これは言うまでもなく米国によって代表されるのであり、丸太小屋から億万長者への夢の階段を許す経済形態というのは、少なくともそのチャンスを万人に与えるという点で、資本主義だけであろう。

とにかく現在の米国人が資本主義を死んでも手放すまいと思っているのは、要するにそれが夢とビジネス・チャンスを与えてくれる( ことになっている) からである。


( 3 )他国の資本主義から自国を守るための資本主義
日本の資本主義の本質とは、要するにこれである。

19世紀の産業社会の到来によって、このままでは身ぐるみ剥がされてしまうという恐怖から、それに対する対抗策として半ばやむを得ず資本主義を導入したのである。実際その移行期においては「列強の経済的植民地になることを阻止する」というのが合言葉だった。

日本資本主義を駆動する精神とは要するに「心配」であり、この点を理解しない限り、日本資本主義というものは理解することができない。極言すれば日本人は金儲けをしたくて必死に働くというより、今の地位を失うのが心配だから必死に働くのである。

米国の資本主義は夢によって駆動され、日本の資本主義は心配によって駆動される。

そのため70年代ごろから彼らは経済交渉で日本経済のオーバーコートを脱がそうと北風を吹かせまくってはそのたびに日本の工業競争力を結果的に強くしてしまった。

そのため彼らは一時は日本経済を何か不可解な怪物のように考えることすらあったが、そのからくりは簡単で、要するに夢の種は尽きることがあっても心配の種は尽きることがないためである。
(実際日本経済を弱くするにはおだてて驕らせるに限るのである。)


(コメント)
韓国・台湾などが最近携帯電話でいい商品を作っていて、各国の人が日本についてコメントをするのを見たのだけど日本は凄いっていうコメントを残す国があったのを覚えている。
あれ煽てているなぁと思ったけど、あれは、日本を弱くする一番の方法なんだよなぁ。
(抜粋1)
カルビニストのもう一つの特性である「孤独性」というものについて指摘しておこう。

これは貯蓄というものの発達に密接に関係していると思われるからである。

自分と神の間に直接つながる一本の縦糸だけがすべてなのであって、それ以外の人間同士の横の関係などは取るに足らないことなのである。

それゆえ彼らは各人が孤立しており、その間の社会的関係の絆というものは希薄化して切れていく。

つまりこのようにして各人がそれぞれ孤立して生きることを強いられるようになった結果の一つとして、貯蓄という行為を背後から促進したと見ることもできるのである。

伝統社会というところは、大体少しぐらい金がなくてもいろいろな相互扶助の糸がつながっているため、大抵は何とかなってしまうものである。しかし現代の都会に生きる者は本質的に孤独であり、自分で何とかしなければならない。そのためどうしても貯金というものが必要になってしまうのである。


(抜粋2)
実際日本は今でこそ貯蓄王国として世界に名高いが、どうも近代以前には庶民の間では貯蓄ということはほとんど行なわれておらず、近代化の課程でその習慣を根づかせるには大変な苦労が必要だったらしい。

以前テレビドラマで戦前の田舎の郵便局を舞台にした話があったのだが、そこで女性局員が貯蓄奨励の紙芝居をやっているというシーンがあった。紙芝居の内容は中国大陸かどこかで戦っている兵士の話なのだが、彼らの部隊は弾薬が尽きかけて危機に陥っている。

しかし最後には弾薬が届いてめでたく危機を脱し、紙芝居の終わりに女性局員の「この弾薬は皆さんの貯金によって作られたものです。お国のためにも郵便貯金をしましょう」という説明でしめくくられるという、キャンペーン用の紙芝居なのである。

これは実にこの時期の日本人の貯蓄というものに対する態度を象徴している。つまりこの時期まだ利殖を卑しむ風潮が強かったため、民間銀行に金を預けて増やしてもらうなどということは、習慣や制度として定着することが難しかった。

そのため国家というものの信用をバックに、国のためという大義名分を与えて徐々に貯蓄という習慣を根付かせていかねばならなかったというわけである。

今ではお国のために貯金しているなどという殊勝な人はまずおるまいが、これもまたかつて伝統社会の引力圏を脱するために一時的に必要だったいろいろな仕掛けの一つであろう。


(コメント)
貯蓄をするのはもちろん人なので、貯蓄をさせるにはうまくそれを実施する仕組みが備わっていないといけない。
都会暮らしは孤立するので貯金を実施するように仕向ける仕組みがあるのだろう。
貯金もなくてすっからかんという人は、収入が少ないか、よっぽど人に頼れる自身のある人しかいないだろう。
まわりにそのような人がいたら都会は伝統社会ではないので注意が必要だともいえる。