大介護時代(7) | 若宮桂のブログ・空と海がぶつかる場所
もう夏、終った感がありますね。

昨年六月に母が亡くなってから、父はひとり暮らし。
認知症だが、症状は重くはない。
週5回デイケアに通い、ひとりでトイレに行ったり風呂を沸かして入ったり、近所のスーパーへひとりで買い物に出かけることもできた。要介護1。
私は毎夕と、デイが無い土日の午前中に家へ行き、食事を作ったり薬を飲ませたり着替えを促したり、といった介護をしに行っていた。

異変は7月27日。
デイから帰ってくると熱が40度を越え、言語も不明瞭になったので日付けが変わる少し前に救急車を呼んだ。
ベッドが空いていたA病院に緊急入院。脳疾患かと思ったが、腸炎と診断された。
これが1回目の入院。
すぐに症状は和らいだが、これを機に下着はリハパンにした。
8月6日に退院。

次は3日後の8月10日。
この日は私の仕事が夕方からだったので、デイを休ませ義歯の調整をしに歯科を受診する予定だった。
それで、朝迎えに行くと脇腹の痛みで立ち上がれない状態。
これはいかんなとまた救急車で再びA病院に緊急入院。今度は肺炎と診断。
やはり症状はすぐに和らぎ、8月17日に退院。
しかしベッドから転落するリスクがあったので、ベッドはたゝみ、布団に替えた。

父は以前、突発性拡張型心筋症という難病の治療をしていて、現在は経過観察中。
それで心機能が弱いらしく、2回目の入院中と退院後のデイケアで血圧が80-50と極端に低くなったりした。
A病院の消化器内科と呼吸器内科の医師、デイケアの医師からも、循環器科の受診を勧められた。デイケアの医師は父の心電図などを持たせてくれた。

8月25日、自分の仕事の合間に心筋症で以前入院していた大学病院の循環器科を受診。この大学は父の母校で、父は病院というと此処へ行きたがった。
A病院を退院してから体調は悪そうで、デイで白目をむいて倒れ込み、点滴を打って過ごしたこともあった。
入院の必要は無い、降圧剤が効きすぎている、どれを抜くかはデイケアの主治医の先生に任せると云われ、仕事の合間に無理して来たのに肩すかしをくらったような感じで退室。

そして4日後の8月29日。
夕方、仕事を終えて父の家へ行くと、体調は悪そうだったが、寝巻に着替えたりひとりでトイレに行ったりはできた。
19時半か20時頃、夕食ができたので寝ていた父を呼びに行くと、また言語不明瞭。さっきまでひとりで(なんとか)立って寝巻のズボン穿いていたのに。
今度は救急車を呼ぶか迷い、自分が所属している事業者の同僚に電話。
同僚も来てくれて、相談の結果やはり呼ぼうとなった。
日付けが変わって30日、4日前に受診した大学病院に緊急入院。

今度は前2回の入院と違い、症状が重い。何故こんな急に悪化したのか。
入院直後、意識は無くなったが、翌日戻った。
おば(父の姉と妹)も兵庫と大阪から駆けつけたが、しかし話しはほとんどできない。片言で喋るていど。
食事も口から食べられず、鼻からチューブを入れて摂取。体位変換もできず、握力も弱い。

昨日、病院で症状の説明と今後のことの説明があった。
2度の入院で足にちいさい血栓ができ、それが何かの拍子に跳んで肺に達して再び肺炎になったのと、認知症の中核症状のてんかん(癲癇)発作などが原因(ほかにもいろいろあるが)ということだった。
跳んだ先が脳じゃないのが不倖中の倖い。

今後は、まず口で噛んで物を食べられるようになること。歩ける、またはせめて立てるようになること。
それを目指してリハビリすることになる。
別な病院へ転院となるが、ケアマネや職場の同僚と相談してどの病院にするか決めようと思う。言語聴覚士(ST)がいる病院が良いだろうと医師からアドバイスを頂いた。

月に3度も救急車。
私の肺疾患療養の為に事業所を1社辞めたのだけど、結局父の介護で忙しく、療養にならないな。
でも夜の仕事が全部無くなったのでだいぶラクになった。