☆ 捕鳥部萬墓 (天神山古墳)

(ととりべよろずのはか)




和泉国和泉郡

岸和田市天神山町2丁目(「天神山」内)

(P無し、駐車やアクセスは下部写真参照)




飛鳥時代に生きた捕鳥部萬(トトリベヨロズ)の伝承墓。「津田川」中流域、かつての木島郷(きのしまごう)の丘陵地にあります。

◎崇峻天皇紀に以下が記されます。

━━(蘇我馬子軍により物部守屋大連は滅ぼされた)物部守屋の資人(従者)である捕鳥部萬墓は、百人の兵を率い難波の守屋宅を守っていた。ところが大連が滅んだ知らせを聞き、馬で夜に逃げ、茅渟縣(ちぬのあがた)有眞香邑(ありまかむら)に向かった。婦人宅を過ぎ山に隠れた。朝廷は議り言った「萬は逆心(謀叛計画)を抱いているから山中に隠れた。速やかに滅ぼし、怠るべからず」と。萬の衣裳は破れて汚れ、顔色は憔悴、弓を手に剣を帯び独りで出て来た。役人は数百の衛士を遣わし萬を囲んだ。萬は驚き竹林に隠れた。そして縄を繋ぎ竹を引き動かし、何処にいるか分からないように惑わせた。衛士等は惑わされ、揺れる竹を指し、「萬はここにいるぞ」と。萬は箭を放ったがすべて命中。衛士たちは離れて近付けない。萬は弓を外して脇に挟み、山に向かい走り去った。衛士等は河を挟み射るも、一つも当たらない。一人の衛士が疾走し河の側に伏せ、狙いを定め射た。そして膝に当たった。萬は箭を放ち返し、地面に伏し「萬は天皇の楯と為し、勇ましさを顕し誰も疑わない。ところが窮地に追い詰められた。語り合うことができる者がいるなら来い、願わくば殺すのか捕らえるのか聞きたい」と言った。衛士等は萬は競って走り射たが、それを払いのけて三十余人を殺した。剣で三つに断ち切り、剣を捻じ曲げ河に投げ棄てた。そして別の刀で自らを刺し死んだ。河内国司(当時はまだ和泉国に分国していない)は萬の死に様を朝廷に報告した。朝廷は勅した。「ハつに斬りハつの国に散らして串刺しにしろ」と。河内国司がそのようにすると、雷鳴大雨となった。萬には飼っていた白犬がいた。伏し仰ぎ屍の側を周り吠えた。白犬は頭を咥え古塚に収めた。枕横に伏し、そのまま飢え死んだ。河内国司は其の犬の様子を朝廷に報告。朝廷は哀しみを隠せず「此の犬は世にも珍しい、後世にも知らせるべきだ。萬の一族に墓を作らせ葬るように」と勅した。萬一族は有眞香邑に墓を並べて作り、萬と犬とを葬った━━

捕鳥部萬の豪傑ぶりと白犬の忠犬ぶりが長々と語られています。少々異常とも思えるほどの長文。よっぽどの事件であったかと思われます。その伝承墓がこちらの当墓。

◎捕鳥部萬の出自は定かではありません。おそらくは鳥取氏の部民であろうと考えられます。隣の日根郡鳥取郷に波太神社が鎮座。鳥取氏の祖神である角凝命を祀り、鳥取神社も隣接。

「新撰姓氏録」には、「和泉国 神別 鳥取 角凝命三世孫天湯河桁命之後也」とある氏族(他にも記載有り)。始祖は少彦名命。鳥取氏は製鉄鍛冶氏族と考えられます。誉津別皇子は聾唖者であり、これは鉱毒によるものと考えられます。天湯河板擧命の神名は鉄が溶解した様子を表したものであると。また記紀に見える鵠を追いかける様子は、鉱山を求めて鳥取氏が移動した様子を準えたものとする説が有力。

◎この塚は「天神山古墳」と称され、1号墳が白犬の墓で「義犬塚古墳」、2号墳が萬のもの。

◎顕彰碑は幕末から明治維新に活躍した三条実美が建てたと伝わります。



墓地前に車を停め置き、黄色の矢印通りに進んで行きました。

左手は墓地(敢えて写らないようにしています)。緩やかな坂道を登ります。

公園外周を歩き、公園(天神山)に入ります。

奥の石段を登ります。

休憩場があります。

右から行くと遠回りになります。赤字のところから。

2~3分ほど登ると現れます。

こちらがおそらく三条実美が建てたという顕彰碑。劣化していてほとんど読めません。

白犬の墓(2号墳)を探し出すことは叶いませんでした。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。