安原八幡神社
紀伊国名草郡
和歌山市相坂631
(拝殿前に駐車スペース有り)
■祭神
応神天皇
神功皇后
武内宿禰
和歌山市の南東部郊外の丘陵地、「相坂」に鎮座する社。社殿は小山の南側中腹に設けられています。
◎鎮座地名は「紀伊続風土記」に言う「安原荘相坂村」。西方は「名草山」の東側に広がる田園地帯、東方は「奥須佐」の丘陵地を隔てて伊太祁曾神社が鎮座する「山東」。紀朝臣や紀伊国造家(紀直)が拠点としていたものと思われます。
◎創祀創建年代は不詳、実年代には諸説有り。「社伝由来記」に、応和元年(961年)に神託により宇佐神宮より天降ったとあることから、当社側はこれを創建年代としています。
◎ところがこれを社殿再建年代とみなし、欽明天皇の御宇に神功皇后が関わった地に八幡造営の勅命があったことを創祀年代とみているのが「紀伊続風土記」「紀伊国名所図会」。これらを紹介しつつも、古記録を焼失しているため裏付け資料無しとしているのは和歌山県神社庁の見解。
◎その「神功皇后が関わった地」については、社伝に「神功皇后が三緯を征して後、新羅国より御凱旋の際、忍熊王の難(→ 「香坂王・忍熊王の反乱」 その1・その2)をさけ、難波から紀水門(現在の安原附近)に御到着、御子誉田別尊を武内宿禰に護らせて上陸させ、皇后みずからは更に日高郡衣奈まで迂回をして、再び津田浦(現在の安原小学校附近)に御上陸し頓宮を造られ御滞在なされた跡」であると神社庁は掲げています。
◎神功皇后紀には以下がみられます。
━━神功皇后は忍熊王が軍を配備したと聞き、武内宿禰に誉田別皇子を懐に抱かせ、南海へ出立し「紀伊水門」に泊らせた。皇后自らは難波へ向かうも船が海中で廻り上手く進まず(「鳴門の渦潮」か)、「務古水門」(現在の「武庫川」河口に比定)に退却し占いを行った。そして神の加護を得て船が進むと、紀伊国「日高」(現在の日高町)で武内宿禰と合流。軍臣等と議り忍熊王を伐とうと「小竹宮」(候補地多数有り)へ遷った━━
かつて「紀ノ川」河口は「和歌浦」にあり、現在のようにそのまま西へ流れずに、大きく湾曲し南へ流れていました。「名草山」は「紀ノ川」東岸に聳えていた格好に。武内宿禰はその辺りから上陸し、当地へ向かってきたと考えられます。
◎「紀伊国名所図会」は「当社は(八幡宮の)日本最初の御舊跡也」としています。記紀の記述からして、強ち的外れとは言えないようにも思います。
◎当社の奥宮とされる武内神社が南東500mほどに鎮座。そちらは武内宿禰の生誕地と伝わり、境内には「産湯井」も。紀の景行天皇三年の段に武雄心命(タケオゴコロノミコト)が「阿備柏原」(和歌山市「相坂」が推定地)に派遣され、九年間滞在し影媛との間に宿禰が生まれたと記されます。これらが史実であるなら、宿禰がこの地に上陸したというのも頷けるものかと思います。
◎境内社として高羅神社(武内宿禰か)、織染神社(天羽槌雄神、天棚機姫神、少彦名神、草野比賣神)、稲荷神社、瑞穂神社(「紀伊国名所図会」に言う「若宮社」か)が鎮座します。
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