肥前国一ノ宮 與止日女神社 *フリー写真素材より






◆ 土蜘蛛 二十一顧 (「肥前国風土記」~2)






近年は夏ごろに毎年、九州で「線状降水帯」とやらで、洪水等の大災害が起こっています。

筑後国、肥前・肥後国、豊前国辺りが多いように思います。

10年ほど前に九州北部を敬神旅行したことがありますが、その想い出の地も多く被災に。惨状を目にするたびに悲痛な思いになります。

今回も最近に大災害が起こった地です。





■ 「肥前国風土記」~2

「肥前国風土記」には多くの「土蜘蛛」が掲載されているため、記事を数回に分けています。



◎佐嘉郡(さかのこほり)

━━この郡の西には川があり、その川の名を佐嘉川と言った。この川には年魚(アユ)が棲んでいた。その水源は郡の北の山であり、南に流れて海に入っている。

この川の川上には荒ぶる神がおり、道を往来する人々の半数を生かし、半数を殺していた。そこで縣主らの祖である大荒田が占いで御神意を問うた。すると「土蜘蛛」の大山田女(オオヤマダメ)と狭山田女(サヤマダメ)という2人の女がいて、「下田村の土を取り、それで人形と馬形を作って この神を祀れば、必ず応じて和むでしょう」と言った。大荒田はそれに従い神々を祀ると、神は受け入れ鎮まった。そこで、大荒田は「この婦人は実に賢い女だ。これを以て賢女(さかしめ)を国の名としたい」と言った。これにより賢女郡と名付けられ、今は訛って佐嘉郡となった━━(大意)


*「佐嘉郡」とは現在の佐賀市の地域と重なるようです。表記は古代より「佐嘉郡」「佐賀郡」の2通りあり、明治に「佐賀」に統一されています。
地名由来譚が載せられていますが、同書には他の説も載せており、こちらはそのうちの一つ。

*「佐嘉川」
舞台となった「佐嘉川」は現在の「嘉瀬川」。水源は「脊振山(せふりまや)」山系の「金山」(標高967m)。「脊振山」山系全体が霊峰とされていましたが、山岳密教の輩たちに荒らされたようです。

*「荒ぶる神」
「川上にいる荒ぶる神」というのは、與止日女神社(未参拝)のご祭神である水神ではないかと考えます。

*與止日女神社
・式内社 與止日女神社の比定社
・肥前国一ノ宮
・祭神/與止日女命
・「嘉瀬川」の川上畔(佐賀市大和町川上)に鎮座

ご祭神の與止日女命については、神功皇后の妹とされますが、綿津見神の娘である豊玉姫であるとも。

原初は水神(龍神)であり豊玉姫が宛てられていたのではないかと。後に神功皇后の妹である淀姫(豊姫)が被さったように思います。

「荒ぶる神」ということは、たびたび洪水を起こしていたということなのでしょうか。佐賀市大和町と言えば、つい最近(2023年7月)に線状降水帯が発生し、大災害を被ったことが記憶に新しいですが。

なお引用した「肥前国風土記」の記述のこの後すぐに、「世田姫」が「荒ぶる神」と同神の如く描かれています。そちらでは海神である「鰐(ワニ)」が、世田姫の元へ遡上してやって来るとあります。

*縣主の祖 大荒田
「縣主」とあることから、ヤマト王権の支配下でありつつも、在地豪族の長であろうと推されます。ヤマト王権から派遣された人物ではないということ。
上毛野氏の祖で、日本武尊東征に副将軍を務めた大荒田命とはまったくの別人。

*大山田女・狭山田女
紛れもなく「土蜘蛛」と表記されています。「土蜘蛛」とは「ヤマト王権にまつろわぬ者」ですが、まつろわぬどころか、大荒田が占いをした際には進言まで。おそらく「荒ぶる神」の神託を授かったということでしょう。

つまり大山田女・狭山田女が奉斎していたのが與止日女命、或いは水神(海神、龍神)ということなのでしょう。

2人の「土蜘蛛」は、「下田村の土を取り、それで人形と馬形を作って この神を祀れば…」と言っています。これは神武東征時の「天香山の埴土を取り、祭器を拵え天神地祇を祀れば…」と、日葉酢媛の葬儀の際に「埴土を取って人馬や種々の物形を立て殉死の代わりにする…」とを連想させるもの。

これは一体どういうことなのでしょうか?
その地域の人々を苦しめ、ヤマト王権にまつろわぬ「土蜘蛛」は誅されるとするのが通例。服属したとしても長は首を取られるもの。そうしておかないと復活する可能性があるため。

生かされており、在地豪族の長と親しげに話をして、なおかつ「賢女」だと褒め称えられている有り様。「土蜘蛛」のなかでも特異な例として捉えておかねばならないかと思います。


赤破線囲みが佐賀市大和町、赤三角は與止日女神社。



*「大山田」「狭山田」「下田」
大山田女・狭山田女が居た場所は、現在の佐賀市大和町「東山田」が比定地。與止日女神社が鎮座する大和町「川上」の南隣。
「下田村」は與止日女神社の「嘉瀬川」対岸辺りとする資料がありますが詳細不明、調べきれていません。下流の市街地内に「下田町」は存在しますが、こちらではないのでしょうか。

よくよく見てみると…大山田女・狭山田女・大荒田・世田姫、地名の「下田」と、なぜか「田」ばかり。

地図をご覧頂ければ分かりますが、ちょうど與止日女神社を境に山地と平地が分かれます。だからすぐ近くで災害が起こったのでしょうが。

*「縄文」と「弥生」の融合
「土蜘蛛」というと「鉄」に目がいきがちですが(私だけ?)、「稲」の方にも目を向けないといけないと思っています。

いち早く稲作を取り入れあたかも先進的な生活を営んでいると感じる人々が、後進的な生活のままだと感じていたのが「土蜘蛛」ではないかと考えています。

いち早く山を降りてきた縄文人と、後れて降りてきた縄文人。それらが交錯したのがこの「川上」だったのではないでしょうか。

東方わずか3kmほどの辺りには「久保泉丸山遺跡」があります。こちらは日本最古ともされる118基からなる、縄文前期の支石墓群。

こちらも與止日女神社と同様に山地と平地の境。山地側には金立神社 上宮が鎮座。徐福がご祭神の一柱 (詳細→【徐福(方士が見た理想郷)】の第3回目の記事)。史実なのかどうかという問題もありますが、徐福が秦を旅立ったのは紀元前3世紀のこと。

「脊振山」山系でもあり、この辺りの地域までを含めて考える必要があろうかと思います。さらに東方7~8kmほどには、最近何かと話題の「吉野ヶ里遺跡」も。こちらは異なる文化圏だったのでしょうが。

また「久保泉丸山遺跡」の南西すぐには、古墳時代前期(4世紀末頃)の金立銚子塚古墳が築かれています。全長96mの前方後円墳、ヤマト王権との関わりが考えられます。大荒田命の時代は不鮮明ですが、被葬者候補の一人としてみられるでしょうか。


與止日女神社と「嘉瀬川」。*画像はWikiより


*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。