(大和国宇陀郡の隼別神社)



■表記
紀 … 雌鳥皇女(メドリノミコ)
記 … 女鳥王


■概要
記紀ともに隼別皇子(速総別王)とともに仁徳天皇へのクーデターを策するも未遂に終わり、討たれるという説話が載せられています。

◎紀の仁徳天皇即位四十年の段
━━天皇は雌鳥皇女(女鳥王)を後宮に迎えようと隼別皇子を仲介役にした。ところがは雌鳥皇女を自身が娶り、それを天皇に報告しなかった。天皇は2人が夫妻になったとは知らず雌鳥皇女の家へと向かった。すると女人たちの歌を聞き、2人が夫婦であることを知り恨んだが許した。しばらくすると2人が天皇よりも隼別皇子の方が優れていると言い、また天皇を殺せと言っているのを聞いてしまった。2人は逃走したと聞き、すぐに2名の使者を遣った。伊勢神宮を目指し菟田(うだ、宇陀)の「素珥山(そにやま)」を越え逃げたが、伊勢の「蒋代野(こもしろの)」で殺された━━(大意)

◎一方で記にも仁徳天皇の段に同内容のものが記されています。
━━天皇は弟の速総別王を仲介として女鳥王に求婚した。女鳥王は速総別王に「皇后 磐之媛の嫉妬が強く、八田若郎女ですら娶っていません。私は貴方(速総別王)の妻になります」と言って夫婦となった。天皇は敷居で「貴女(女鳥王)が織っている服は誰のものだ」と言うと、「速総別王のものです」と答えた。天皇は2人が夫妻になったことを知り都へ帰った。そこへ速総別王が帰宅すると女鳥王は「天皇を殺してしまいなさい」と言った。ところがこれは天皇の知ることとなり、2人は「倉椅山(くらはしやま)」へ逃げた。さらに菟田の「蘇邇(曽爾)」へ逃げるもここで殺された━━(大意)

◎細部の違いはあれど同内容のもの。語り継がれていた物語性の高い伝承があったようです。どうやら雌鳥皇女(女鳥王)が隼別皇子(速総別王)をそそのかしたと伝っていたと思われます。
雌鳥皇女は応神天皇と宮主宅媛(宮主八河枝比売)との間の御子。隼別皇子とは異母兄弟にあたります。また大鷦鷯命(仁徳天皇)とも異母兄弟。

◎仁徳天皇は「聖帝」などとも称されるように、人民に寄り沿う天皇として描かれています。一方で皇后 磐之媛は激情家で嫉妬深いと描かれています。雌鳥皇女はこの嫉妬深い磐之媛に配慮して入妃を断ったと。紀ではこのクーデター事件の前に薨去したとしていますが、記では事件後の薨去としています。

◎記の「倉椅山」については、大和国十市郡の「倉橋山」、或いは同郡の「音羽山」とみられています。その後に菟田(宇陀)郡の「曽爾」へ向かっていることからすれば、その途次とみることができます。

一方で丹後の与謝郡にも伝承があるとのこと。これは一連のやり取りの歌中に、「梯立ての 倉椅山…」とあることから創られたものではないかと思われます。つまり「天橋立の倉椅山」のことであると。「倉椅山」はすぐ近くの「野田川」河口に聳える低山。

◎記で言うところの終焉の地、紀で言うところの逃亡中に隠った地、宇陀の「曽爾」に隼別皇子を祀る若宮神社が鎮座しています。

◎この記紀の両説話の後に雌鳥皇女と皇后にまつわる話があります。

紀の記述
━━(殺害後)天皇が送った使者は皇女の玉を探り、服の中から見つけた。そしてすぐに2人の屍を「廬杵河(いほきかわ)」の川辺に埋め、討伐を報告。皇后(矢田皇女)は彼等に「もしかして彼女の玉を見たのか」と問うたが、「見ていない」と答えた━━(大意)

使者が送られる時にやり取りがあります。
皇后(矢田皇女)は、「雌鳥皇女は重罪に当たる。しかし殺す時は皇女の肌を露にしないように」と言い、「皇女が斎く足や手に着けている玉を取ることのないように」と詔しています。つまり使者はこの約束を破ったということ。
矢田皇女にとって雌鳥皇女は実の妹。配慮したのだろうと思います。

記の記述
━━将軍 山部大楯連(追討に派遣された使者)は、女鳥王が手に着けていた玉釧(たまくしろ)を取って自分の妻に与えた。その後、宮中で酒宴があり、大楯連の妻が女鳥王の玉釧を着けて現れた。皇后(磐之媛)はそれを見つけ退席させた。そして夫の大楯連に「無礼なので退席させた。己の主君が手に着けていた玉釧を、まだ肌の温かいうちに剥ぎ取り、それを妻に与えるとはなにごとか」と言い死刑にした━━

記ではまだ磐之媛が存命中、紀とは異なり皇后とあれば磐之媛となります。

紀にみえる「斎」という記述、記にみえる「肌の温かいうちに…」という記述、これらから「玉釧」が単なる装飾品ではなく霊力を宿したものとみることができると思います。
そもそも「玉」は「=魂」であり、例えば「玉櫛」などのように玉製品ではなくても「玉」という文字を使用。

この場面においては、雌鳥皇女(女鳥王)の魂を大楯連の妻が宿すということになるのではないかと。それをもっとも嫌うのは実の姉である矢田皇女。記では磐之媛が…となっていますが既に薨去していて矢田皇女からの言葉であったように思います。