☆ 酒君塚古墳



摂津国住吉郡
大阪市東住吉区鷹合2-5 (「酒君塚公園」内)
(P無し、公園南側の100円/40分のコインPが最安)



大阪市の南東部、東住吉区「鷹合(たかあい)」の密集市街地内の古墳。古墳跡を中心に公園として整備されています。

東住吉区東部「鷹合」「桑津」「山坂」にかけての一帯は大規模な「田辺古墳群」があったとされる地。
ところがすべて消滅し現存するのは当古墳一基のみ。しかも既に盛土がなされており、原形を留めていません。

近年の発掘調査の結果、上部を削られ低くなった古墳(径35m以上、高さ2m前後)に江戸時代の終わりから明治初めに盛土をして墳丘状にしたことが判明。

古墳から出土した円筒埴輪から築造時期は4世紀末で、田辺古墳群ではもっとも古いことも判明しています。

「摂津志」(江戸中期)によると、「住吉郡鷹合部第宅の古墳 鷹合村にあり また鷹甘部(たかかひべ)の墓あり 今平塚と称す」であると。

被葬者は鷹甘部の酒君と伝承されています。
酒君は仁徳天皇の時代に2箇所で登場。以下その状を掲げておきます。この2箇所は間に他の記述が無く連続しています。

◎仁徳天皇四十一年春三月の条
━━紀角宿禰(キノツノスクネ)を百済に派遣し、初めて国郡の境界を定め郷土の特産物を記録させた。この時百済王族の酒君が礼を失したことで、紀角宿禰は百済王を叱責した。百済王は酒君を鉄鎖で縛り葛城襲津彦(紀角宿禰の弟)に差し出した。酒君は日本に連れて来られるもすぐに石川錦織首許呂斯の家に隠れ、「天皇は既に私の罪を赦した、だから貴方の元に身を寄せ生活したい」と騙した。しばらく時を経て天皇は罪を赦した━━(大意)

◎同四十三年秋九月の条
━━依羅屯倉阿弭古(ヨサミノミヤケノアビコ)が不思議な鳥を捕まえ、天皇に献上して曰く「私は毎朝網を張り鳥を捕まえていますが、見たことのない鳥でした。不思議に思い献上しました」と。天皇は酒君を召し鳥を見せて曰く「これは何という鳥だ」と。酒君は「この鳥の類いは百済に多くいます。馴らせば人に従います。速く飛び、他の鳥を捉えます。百済では倶知(クチ)と名付けています」と答えた。これは今に言う「鷹」のこと。酒君に授けて飼い馴らせたが、すぐに馴らすことができた。酒君は韋(なめし皮)の縄を足に着け尾に鈴を付け、腕に乗せて献上した。この日、天皇は百舌鳥(もず)野へ狩りに出かけた。雌雄の雉が多く飛んでいたが、鷹を放つとたちまち数十の雉を捕えた。この月、鷹甘部(たかかひべ)が定められ、当時の人はその鷹を養う処を「鷹甘邑(たかかひむら)」と名付けた━━(大意)

この説話には疑問符がつきます。
鷹は縄文時代の遺跡から骨が見つかっており、当時は食料とされていたようです。だから珍しい鳥ではないはず。したがって創作話としか考えられません。

また想像するに、食料としていたほどですから他の鳥を補食することも周知のことだったであろうことも。
おそらくは「鷹甘部」、「鷹甘邑」を説明するために創作されたのではないかと。

葛城襲津彦に連れて来られた部分の方は史実とするなら、4世紀末~5世紀初頭となるので、築造時期とは合致します。
ところが捕虜同然の人物が、これほど大きな古墳を築くことは有り得ないだろうと思います。

したがって酒君と同時代に生きた首長級の人物の墳墓であろうと考えます。








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