志紀長吉神社


河内国志紀郡
大阪市平野区長吉長原2-8-23
(境内にP有り)

■延喜式神名帳
志紀長吉神社 二座並大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
郷社

■祭神
事代主命


「大和川」北岸、大阪市平野区「長吉長原」に鎮座する式内大社の比定社。
◎「大和川」は宝永元年(1704年)に南方に大きく「つけかえ」がなされました。かつては「大和川」の支流、「平野川」と「狭山西除大川」に挟まれた地だったと思われます。
◎ご祭神は長江襲津彦命と事代主命の二柱。長江襲津彦命とは一般に葛城襲津彦として知られる武内宿禰の第6子であり、葛城氏の栄華を生み出した祖神。外祖父として、天皇を凌ぐほどの権勢を誇っていた人物。当社はその二柱の裔たちがそれぞれ祖神を祀っていたものが合わさり、生まれた社と言えるかと思います。
長江襲津彦命は当地を開拓し、晩年にこの「長江」の里に幽宮を定めたと社伝にあるようです。また後裔の玉手臣・生江臣・阿芸那臣等が当地に居住していたとして、祖神である長江襲津彦命を祀ったものと見られています。
「新撰姓氏録」には、「玉手朝臣 右京 皇別 武内宿祢男葛木曽頭日古命之後也」、「生江臣 左京 皇別 石川朝臣同祖(孝元天皇皇子彦忍太信命之後也) 武内宿祢之後也」と見える氏族、阿芸那臣は「阿祇奈君 大和国 皇別 玉手朝臣同祖 彦忍太信命孫武内宿祢之後也」とある氏族ではないかと思われます。
「長江」は「長柄」と同義とされます。大和国葛上郡の葛城襲津彦の邸宅があったとされる地には、長柄神社が鎮座しています。
◎一方の事代主命は長柄首が当地を拠点としていたと伝わります。「新撰姓氏録」には、「長柄首 大和国 神別 地祇 天乃八重事代主神之後也」と見える氏族と思われます。
こちらも「長柄」。また大和国葛上郡の鴨都波神社は鴨都波八重事代主命(積羽八重事代主命)を主祭神としていますが、葛城氏が関わる社であったとも考えられています。
北隣の河内国若江郡には式内社 長柄神社が鎮座していました(明治に矢作神社に合祀)。こちらも長柄首の拠点であったと思われます。かつての「大和川」沿いであったかと思われます。
長柄神社の主祭神、鴨都波神社の配祀神に下照姫神が見えます。こちらは渡来人が奉斎した神であろうと考えられます。おそらく葛城襲津彦が連れて来た渡来人ではないかと。
大和にいた時代から、或いは「大和川」を下ってから両氏族間で関わりがあったということになりそうです。
◎なおご祭神について、「神社覈録」は祭神不詳、「大和国神名帳」「神祇志料」は栲幡千々姫命、「河内国式神私考」は天宇受売神・草野比売神としています。
◎当社創建年代は不明ながら、由緒は社頭案内にて以下のように示されています。
━━往昔大嘗会に当社社有地の東六丁に多く繁っていた日蔭蔓を奉っていたところ、平安朝第51代平城天皇より日蔭大明神の神号と左の御製を賜る。「神山の日蔭の蔓かざてふ 豊の明かりのわけてくまなき」以来、日蔭の蔓を神紋とすると伝えられている。第69代後朱雀天皇・第70代後冷泉天皇の御祈願所でもあつた。御鎮座の年代は定かではない。
日蔭の蔓とは、常緑つる性シダ植物であり脂肪に富み、吸湿性がないので、傷薬に混ぜて使用されている。又、天皇即位の大嘗祭・新嘗祭等の神事に奉仕する宮人が、蔓として頭上から左右に懸け垂れた斎忌のしるしであり、穢から身を守るものとして最も尊いものであった━━
◎平城天皇の在位期間は、大同元年(806年)~三年(808年)。上記内容を史実とするなら、既にこの時には鎮座していたということになります。
式内大社になり得たのは、この内容が比較的新しい時代、「神名帳」が編纂される直前に起こったことが寄与していると思います。








*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。