深田部神社

丹後国竹野郡
京都府京丹後市弥栄町黒部深田411
(駐車スペース有り)

■延喜式神名帳
深田部神社の比定社
大宇加神社の参考社

■旧社格
村社

■祭神
宇氣母智神
[配祀] 天照皇大神 誉田別尊 天児屋根命


「竹野川」中流域沿いに発達した田園地帯の外れ、東岸の丘陵頂に鎮座する社。鎮座地名は京丹後市弥栄町「黒部深田」。
◎「竹野郡誌」には以下のように記されます。
━━豊宇氣大神は崇神天皇十年癸己丹波道主命に詔り給ひ 國中に不服者あらば射向けよとの大命により 當國に下りたまひ平定の後 此國を治し坐せる時に御稔豊に國人の安穏に日足り行かん事を欲し 坐して穀物に幸ひ給ふ 此一柱の大神を此地に鎮め奉り給ひしなり━━
豊宇氣大神の神託により丹波国(後の丹後国)を平定し、豊宇気大神を祀ったというのを創祀としています。そして宇氣母智神(保食神)は豊宇氣大神と同神であると。
◎「竹野川」下流200~300mほどには、丹波道主命の陵墓と伝承される「網野銚子山古墳」が築かれています。また南方すぐの辺りには「奈具岡遺跡」があります。水晶玉を用いた日本屈指の装身具の大工房跡が発見されています。
当社社伝では五穀豊穣を祈念して云々とされていますが、当地は古代「丹後王国」の中心地、何らかの霊地とみなされていたのではないかと考えます。
◎現社地は応仁期(1467~1469年)に遷座されたもので、かつては八幡神社が鎮座していたとのこと。当社旧社地は北西麓100~200m、黒部小学校の敷地内。
◎また「竹野郡誌」は、社名由来となった地名について以下の内容を示しています
━━社名原由深田部の名義社記に曰當地の近辺往古海原なりしが漸々潮水引き其跡深き沼田となる 其時の状況自然土地の地名となり此近辺総て深田と云ふ此地に創立せしを以て深田部神社と称するなり━━
往古「竹野川」河口は「潟湖(せきこ)」であり、これが「丹後王国」という巨大権力が出来上がった一因とされています。かつてはさらに南方の「溝谷」辺りまで広がっていたようです。


社号標の向かって右側に駐車スペースがあります。


舞殿、ご本殿ともに早くも冬支度。

シートを少し捲り神前へ。見事な彫刻が施されています。


ご本殿後方の「神籬跡」でしょうか。


中には古札などが捨てられています。

墳墓らしき2基の高まり。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。