海潮神社
(うしおじんじゃ)


出雲国大原郡
島根県雲南市大東町南村424
(社前に駐車スペース有り)

■延喜式神名帳
海潮神社の比古社

■旧社格
郷社

■祭神
宇能治比古命


「斐伊川」上流の支流、「赤川」沿いに鎮座する社。「宍道湖」からは直線距離で10kmほど、流路からは30kmほどの内陸部、山村集落内に位置します。ご本殿は標高236mの「三笠山」を背後に。
◎創建年代は不詳。社頭案内は以下の内容を掲げています。
━━出雲国風土記に、宇能治比古命北の方海潮を押し上げて御祖須我弥命を漂はす、此の海潮此の地に至る故に此の地を得塩というとあり、命を祀り、得塩社とした━━
◎須我弥命と宇能治比古命が登場しますが、記紀には見られない「出雲国風土記」固有の神。宇能治比古命は宇能遅比古命、宇乃治比古命とも。須我弥命は須義禰命とも。
「赤川」下流の「加茂町宇治」に宇能遅神社が鎮座しています(未参拝)。また「出雲国風土記」には「縦縫郡沼田郷」(現在の出雲市、宍道湖の西側でかつての斐伊川の河口)の項でも登場します。
この父子間の争いともとれる神話については、この風土記のわずかな記述以外に情報源は無く詳細は不明。
◎「赤川」のさらに支流である「須賀川」を遡ると須賀神社が鎮座します。こちらは「日本初之宮」とされ、記のスサノオ神による八岐大蛇退治後に妻の櫛稲田比売とともに訪れ、「吾此地に来りて我御心須賀須賀し」と言って宮居を定めたという、由緒あるゆかりの社。奥宮の磐座(八雲山の夫婦岩)も広く知られるところ。
一説にこの社は須我弥命(須義禰命)を祀る社ではないかという考えも存在します。上記のような由緒を有するも式外社。
◎そもそも「出雲国風土記」に、記紀神話の八岐大蛇は記されません。これは須我弥命の伝承が記紀神話として上塗りされたのではないかとも。
出雲国はかつて、東部の意宇郡(宍道湖や中海の南側、出雲国一ノ宮 熊野大社が鎮座)が中心地。そこから出雲国西部に進出し統御。
門脇禎二氏は「記紀に出てくる神話の原型は、すべて出雲西部の語部たちの間に語りつがれていたものが下敷きになっていた」、そして「意宇の王がヤマト朝廷の国造(千家氏のこと)にされると、この出雲国造からヤマト朝廷に伝された」としています。つまりは須我弥命等の神話が下敷きになり、スサノオ神による記紀神話に置き換えられたとみています。
◎上記の「出雲国風土記」に見える「海潮此の地に至る…」について、津波がここまで押し寄せたとするには難があるかと。記録も伝承も無く、またこのような奥地にまでとは考え難いかと。川辺においてすら標高は100m近く。いわゆる海人族の伝承なのでしょうか。
◎当地より500mほど西北西に船林神社が鎮座します(未参拝)。その鎮座地は「船岡山」という小丘陵であり、「出雲国風土記」にも登場する「船岡山」の比定地。阿波枳閇委奈佐比古(アワキヘワナサヒコ)が引いてきた山であると記され、船林神社のご祭神として鎮まります。
神名通りに阿波国出身と考えられ、海部郡(阿波国の南東端)に和奈佐意富曾神社が鎮座します(未参拝)。海部郡は海部氏の拠点であった地。「意富曾」とは「大麻」のこと。忌部氏との関わりも推察されます。
また出雲国意宇郡に和奈佐神社という小祠が鎮座(未参拝)。社伝によると黒曜石を求め阿波から当地へ渡って来たとあるようです。
どうやら須我弥命(須義禰命)、宇能治比古命(宇能遅比古命)はその海部氏と関わる神であったのではないかと。「出雲国風土記」の「海潮此の地に至る…」は海部氏がもたらした神話なのかもしれません。
◎この海部氏は丹後国一ノ宮 籠神社の社家へと繋がるという説も。豊受大神の降臨神話に関わる「天女の羽衣伝説」では和奈佐夫婦が登場しています。







不明の磐座。



以下境内社を。






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