◆ 徐福 (方士が見た理想郷) ~4




ここ数日は神社の紹介記事ではなく、テーマ記事ばかり上げていますが…

10日間ほど体調を崩し参拝できていないから。
紹介記事を上げる神社のストックが底をつきました。

「天神縁起絵」でかなり埋められたものの、まだまだ足りず。
はてどうしたものか…。


恒例の余談はさておき、前回の記事より日本各地の徐福伝承を記しています。
今回は四国編。といっても1ヶ所しかないのですが。



~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
■過去記事
* ~ 1 … 始皇帝を欺く!

* ~ 2 … 神薬を求め出航!
* ~3 … 九州の徐福伝承

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


◎高知県のちょうど真ん中あたり、高岡郡佐川町に聳える「虚空蔵山」に徐福伝承があるとのこと。

「須崎浦」のある海岸からは北へ5.5kmほど。
標高675m、須崎市や土佐市市野々に跨がっているようです。

「佐川町史下巻」の「鉾ヶ峯縁起」の項には以下のように記されているとのこと。

━━不老不死の仙薬を求めて徐福、張郎の二重臣を仙薬探求の使いとして烟台から出航…(中略)…肥前国の有明湾に無事到着した。寺井津に上陸したが、この地方には霊山らしいものは見つからなかったため、再び錨をあげて出帆し東に向かったが、土佐沖で大暴風雨に遭い一行は難船して散々となり、張郎の鷲翔丸は須崎浦に漂着してしまった。
途方にれた一行は、あれが蓬莱山だと浦人に教えられるままに、仙人が住むという高山に登った。やっと登った山頂には仙人らしい人は見当らず、日もはや西に没したので、一行は峠に柴折り敷いて、異国の空に一夜の夢を結んだのでした。
やがて蓬莱山(虚空蔵山)には夜明けが訪れ、水天万里の彼方に故国を偲んで、望郷の念やるかたなく、腰の鉾をとって高くかざして、抱き合って号泣したという話である。
次第に陽が昇り、山上を仙人を求めて彷うたが、遂に仙人に遭うこともできず、湧き出る清水を仙人の霊泉だろうと思い、その水を瓢につめて難船に残せし僅かばかりの金銀財宝を、山上に埋めて山を下りたのでした。
張郎は不運による探求の失敗を皇帝に報告すべく、土佐の浦を後にしたが、徐福の一行は紀伊の国熊野浦に漂着した。ここを永住の地と定め、地元民に捕鯨の技を教え、帰化人としてこの地で人生を終えた。
一行が柴折り敷いて一夜を明かしたほとりを「柴折峠」といい、鉾を高くかざして望郷の涙を流したほとりを「鉾ヶ峰」と後世の人は呼んでいるのです━━


◎四国の戦国大名であった長宗我部氏が徐福の子孫であるというものも。

「秦長宗我部旧記」という七世紀頃のものとされる書にあるとのこと。

━━秦長宗我部の伝聞によると、始皇帝六代琉孫が日本に来朝した。初めは信濃国に居住し秦徐福と名乗った。文武兼備で凡人ではないため名が広まり、仲哀天皇の勅命により上陸した。大学寮にて儒才を試され、作文を献じると秀逸であったため召し出され、「秦」姓を給わった。これは始皇帝の末葉であったから。これより子孫は繁栄した━━(大意)

いろいろとおかしい部分があり、そもそも徐福と仲哀天皇では500年以上も開きがありますが…。取るに足りないもの、切って棄てていいものかと思いますが。

ここには長宗我部氏が徐福の子孫であるなどとは一切書かれていません。
「系図によると秦長宗我部氏は徐福の子孫であり…」としていますが、系図が示されていないので史実であるとも、間違いであるともなんとも言えません。

系図などというのは数多流布していますから、それが信用に足るものか、そうでないものか。また信用に足るものであっても、部分的に改竄されるのが多い時代なので、ましてや始祖などというのは改竄が当たり前だったと考えています。一応そういう説があるということで掲載はしておきました。




次回はいよいよ新宮熊野編です。
一話で収まるかな?