◆ 「天神縁起絵」
~道明寺天満宮発行ガイドブックより~
(1~13面)




言わずと知れた最強の怨霊神、菅原道真公。

その菅公の生涯から怨霊神となった後のこと、北野天神(北野天満宮、記事未作成)の創建譚などを物語とした、「北野天神縁起絵巻」というものが存在します。国宝指定。

これが鎌倉時代に各地の天満宮に流布し、絵巻が各社に奉納されました。中には変わり種もあり、道明寺天満宮のものは扇面形式。

この度、萩原神社(萩原天神)を参拝した折りに宮司とお話をさせて頂く中で、
道明寺天満宮の宮司を務めておられた時に発行された、「天神縁起絵 ガイドブック」を特別に頂きました。

そもそも専門外の時代であるため、概略程度の知識しか持ち合わせていません。

菅公がどういった形で怨霊神へとみなされていったのか、その詳細を知るいい機会かと思い、この書を元に記事を上げていきます。



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全60枚にも及ぶ扇面で構成されます。

タイトルは北野天満宮側で付けられたように思います。



*著作権の問題もあるでしょうから扇面、文面はボヤかしておきます。
そもそもガイドブックには白黒写真が掲載、本格的に扇面を鑑賞するという趣旨ではないかと。こういった雰囲気のものと捉えて頂けましたらさいわいです。




1.道真化現
菅原是善(道真の父)の邸の南庭に五、六歳の幼児(道真)が忽然と現れる。

2.是善の子となる
幼児(道真)は「定まれる居処もなし、父もなく母もなし。相公(是善のこと)を親とせんと思ひ侍る」と述べ、是善は喜んで道真を我が子とする。



こんな風になってましたか…。
ここまで聖人化されてましたか…。

道真は是善の三男として伴氏(トモウジ)との間に生まれたとされます。二人の兄は詳細不明、早くに夭折したか。また道真出生については確たる資料は無し。
大和国添下郡の菅原天満宮も出世地候補の一つ。そちらでは出雲にある祖神の野見宿禰の墓参りをした際、見初めた女性との間の子としている。


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3.「幼少詩作」
斉衡二年(855年)道真十一歳の時、父の命により初めて詩作する。
 月耀如晴雪 梅花似照星
 可憐金鏡轉 庭上玉房馨

4.「大戒論序執筆」
貞観八年(866年)道真二十二歳

5.「都良香邸弓遊」
貞観十二年(870年)道真二十六歳
都良香という者の邸で弓を射ると百発百中の腕前。文武両道に優れるというエピソード。

6.「吉祥院五十賀」
寛平八年(894年)
吉祥院(現在の吉祥院天満宮)にて五十歳の賀を祝う。



道真の文武両道の様子が描かれています。
「武」までもが本当に優れていたのかまでは分かりません。

貞観八年(866年)道真二十二歳の時と言えば…
「応天門の変」が起こった年。これは伴善男が藤原氏の勢力削減を図るも返り討ちに遭い、伴氏が完全に表舞台から一掃された事件。道真の母は伴氏一族の伴氏でした。

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7.「任大納言」
寛平九年(897年)道真53歳
大納言・大将に任じられる。

8.「任右大臣・家集奏覧」
昌泰二年(899年)道真55歳
右大臣に任じられる。翌年菅家三代の漢詩文集を醍醐天皇の展覧に供じたところ、天皇は詩を作って文才を誉め称えた。

9.「朱雀院行幸」
昌泰三年(900年)道真56歳
醍醐天皇は朱雀院に行幸し宇多法皇と密議。道真こそが政治を委ねるに相応しいと結論。

10.「時平遺恨」
道真はそれを幾度も固辞。政敵である藤原時平の密議への疑いを憚り詩宴を催した。



宇多天皇(後の宇多法皇)から重用されトントン拍子に出世していくも、ついに転機が訪れようとしています。

道真の右大臣任命時、時平は左大臣でした。時平もかなり有能な政治家であったとされます。ところが道真はさらに有能だったのでしょうね。余談ですが時平は容姿も優れていたからか、女性問題も起こしているようです。


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11.「時平密議」
時平は道真を陥れようと重鎮を招き密議。勅命と偽り陰陽寮の役人を召し出し、道真を呪詛。

12.「時平呪詛」
陰陽寮たちは呪詛するも、道真はあらかじめ手だてを施していたため無事であった。

13.「流罪宣旨・法皇参内」
昌泰四年(901年)道真57歳
道真の太宰権帥(だざいのごんのそち)への左遷の宣旨が下る。罪状は斉世親王(醍醐天皇の弟、道真の娘が妃)を立てて、醍醐天皇に対してクーデターを企てたことであったと。
道真は理解者である宇多法皇に
━━流れ行く我はみくづとなりぬとも
 君しがらみとなりて止めよ━━
との歌を送ったとのこと。法皇は急ぎ清涼殿に駆けつけるが、道真に恨みを抱く蔵人頭・藤原菅根に阻まれて醍醐天皇には会えず、流罪が決定してしまう。



時代ですね…時平は「呪詛」を謀りました。道真は「呪詛返し」とでも言うのでしょうか。

そしてとうとう道真は左遷へ。
非常に緊迫した場面が描かれています。宇多法皇が参内していたことを知らぬまま醍醐天皇は道真左遷を決定しました。

それを阻止したとされるのは藤原菅根。かつては道真の推挙もあり出世したこともあったようですが。これには道真に失敗を責められ、衆前で頬を打たれたからなどとも。また時平などの指令に従っただけとも言われます。

醍醐天皇も道真を懇意にしていたはず。それが「時平の讒言」によりこんなことになるとは…。





今回はここまでにしておきましょうか。
全60面中の13面まで進めました。