☆ 仲哀天皇 惠我長野西陵 (岡ミサンザイ古墳)



河内国丹比郡
大阪府藤井寺市藤井寺4丁目
(拝所間際に停めました)



第14代仲哀天皇の治定墓。
「古市古墳群」の西端にあり、世界文化遺産を構成する一基、国の史跡にも指定。

全長245mの前方後円墳。全国第16位の規模であるとのこと。

治定墓であるため未調査ですが、墳丘裾部と周辺にて一部のみ調査がなされています。円筒埴輪と人物埴輪が出土(下部に写真有り)。

その埴輪から5世紀末葉に築造と推定され、これは仲哀天皇の時代とは乖離します。真の被葬者の有力な説は第21代雄略天皇。

その雄略天皇の治定墓は北西1.5kmほどの島泉丸山古墳・島泉平塚古墳。こちらは前方後円墳として治定されているものの、前方部は古墳ではないとする説も。もしそうだとすると天皇陵ではないと考えられます。

これらの古墳に絡むのが1km余り北の津堂城山古墳。こちらは第19代允恭天皇の陵墓参考地。こちらも全長200m超の巨大古墳で、天皇陵とみて間違いなさそう。築造時期は4世紀後半と推定され、允恭天皇のものではありません。

そもそも仲哀天皇陵は「延喜式諸陵寮」には、所在地が「志紀郡」となっています。「惠我」或いはそれに該当する可能性のある周辺地域で、かつ「志紀郡」に属する可能性のある地となると、「津堂村」と「小山村」が浮かびます。その地にある天皇陵にふさわしい古墳と言えば津堂城山古墳、これしか見当たりません。「津堂」は飛地的に「丹比郡」に属しますが、原初は「志紀郡」に属していたのではないでしょうか。


以上3箇所の古墳を以下のように推定します。

*岡ミサンザイ古墳(当古墳) → 雄略天皇陵
津堂城山古墳 → 仲哀天皇陵
島泉丸山古墳 → (天皇陵ではない)


仲哀天皇は実在が疑われるどころか、実在しないというのが事実上定説化されている天皇。ところが当ブログでは、実在したという前提のもとあらゆる記事を起こしています。


実在しないと決め付けるのは簡単。それは最後のそのまた最後の手段であり、痕跡や手掛かりを調べ尽くしていくのが研究者のあるべき姿だと思うのですが。

雄略天皇に対して祝詞を奏上しました。




このクラスの規模となると、一枚の写真には収まりきりません。