☆ 旗尾池



大和国葛下郡
香芝市関屋北1丁目
(池の北側からのみ眺望可)
(ごく短時間の滞在以外は住民のお邪魔になるので、「大阪商業大学 関屋グラウンド」へ向かい途中の道に停め置きここまで歩くのが良いかと)



推古天皇十五年に築造されたという「肩岡池」の候補地の一つ。概要は案内板を写した下部写真にて。

いくつか候補地が上げられています。
当地が不利であるのは、「肩岡」(片岡、傍丘など)という地に含まれるのかどうかが微妙なところであるため。

「肩岡」の中心地は片岡神社(式内名神大社 片岡坐神社)であろうと思われ、北東7~8km辺り。「肩岡」の範囲は正確には分かっていません。

地理的に見ると、片岡神社の南方500mほどの「葦田池」が有力視されているようです。
「王寺町史」の推論ではこちらを比定。「和州旧跡幽考」に「肩岡池 達磨寺艮辺 葦が池といふありこれにや」としていることからも。

池の大きさとしては少々物足りなさは否めません。長い歴史のうちに小さくなったのでしょうか。


一方で当池有利であるのは、案内板のちょうど真ん中辺りに記される内容。
「近世初頭に上里村(現北今市・今泉・上中・高・中筋出作)と呼ばれていた地域は、旗尾池を灌水地域として、現在も農業用水として活用されています。その恩恵を受ける農家の人々で太子講が組織されており、毎年収穫の一部を供米として施入し、太子へ感謝するという伝統が受け継がれています。また法隆寺聖霊院の手水舎には『旗尾分川』と刻まれた石碑が残されています」と。

上里村として上げられている地域は、いずれも当池より南方。池はもとより恩恵を受ける地はおおよそ「肩岡」とは大きく乖離。
顕宗天皇 傍丘磐坏丘南陵は「北今市」にあるものの、治定違いとする説が有力視されています。


当池と類似して、東方400~500m辺りに東西に広がる「分川池」とする説も。
こちらは上記法隆寺聖霊院の手水舎には「旗尾分川」に合致するもの。

今となってはいずれかに比定しようもなさそうかと。個人的思量としては、これほどの巨大な池が造られたのであれば何らかの記録が残ると思うのです。それが見当たらない以上、当池こそが「肩岡池」ではないかと考える次第。

なお時代的に鑑みて、秦氏系の茨田連(マンタノムラジ)が造成に関わったと考えます。

池そのものは大変美しく、夕景など写真家たちにも人気スポットとなっているようです。
当池の守護神である水神の記事は → こちら



全面道路は住宅地内にしてはかなり広めですが、長居するのはご迷惑になりそうです。


中央が「二上山」。二つの山が並ぶように見えるのは東の方角から。ほぼ真北の当地からは一つの山にしか見えません。

当池を維持管理なされているブログを拝見しましたが、とても頑張っておられるようです。

万葉歌碑が建てられています。この歌が詠まれたのはこちらではなさそうに思いますが。

商大さんのグラウンドへ向かう道路から。