五百立神社
(いおだてじんじゃ・いおたちじんじゃ)


大和国添上郡
奈良市雑司町406-1
(近隣コインP等利用)

■延喜式神名帳
五百立神社の比定社

■旧社格
村社

■祭神
(不明)


東大寺南大門から大仏殿へ参道の西側に鎮座する社。ちょうど「鏡池」の向かいにあたる所。
◎当社背後は小高い丘陵地となっており、旧社地と伝わります。現在は「鐵道職員殉職者供養塔」として十三重塔が建っているようです。
◎瑞垣に掲げられる案内板は以下の通り。
━━当社は五百余所社とか五百立神社と称せらる。五百余所社の社名は天喜四年(1056年)五月の東大寺文書に二十五所社・気比気多神社などと共にその名が見える。
中世の絵巻物などには、大仏殿創建に従事した五百人の工匠が、工事が完成すると五百羅漢になって天空高く飛び立ち、姿を消したとの説話がみえる。本来の祭神は定かでない。
大仏殿江戸期再建の祭にも、五百余所社は大工・小工の崇敬を集めたようで、番匠社とも呼ばれ…━━と。
◎文中の「東大寺文書」というのは「東大寺要録」のこと。「中世の絵巻物には…」以下の文面については内容からして、仏教思想に影響された陳腐な附会かと思われます。少なくともその頃には本来の祭神が分からなくなってしまっていたようです。
◎ご祭神については「五百人の番匠」とする以外にも、天冨命や建五百建命(タケイオタツノミコト)といった説も。
◎天冨命は神武東征時、そして平定後に祭祀関係の大役を担ったという神。忌部氏の祖神である天太玉命の孫神。「古語拾遺」には、手置帆負神(タオキホオイノカミ)と彦狹知神(ヒコサシリノカミ)の孫たちを率いて、神武天皇の「橿原宮」を建てたとあります。
忌部氏が東大寺或いは手向山八幡宮の創建にも携わっていたのでしょうか。そういった記述は見当たらず、不明と言わざるを得ません。
建五百建命は「先代旧事本紀 国造本紀」に、神武天皇の御子で多氏の祖神である神八耳井命の孫とある神(実際には神八耳井命四世孫とする説が有力)。崇神天皇の御宇に科野(現在の「信濃」)国造となっています。
当社或いは東大寺や手向山八幡宮との関わりがなく不明。おそらくは語呂合わせで挙げられたものと思われますが、あまりの類似の度合いにこの神こそがという思いも。
いずれにしても案内の言う通りに、「本来の祭神は定かでない」とするべきかと思います。
◎かつては手向山八幡宮の末社とされていたものの、大正時代に村社に列格し末社から外れたようです。


「五百立神社」と「鐵道供養塔」と刻まれた石標。