鸕宮神社
(うのみやじんじゃ)


伊賀国阿拜郡
三重県伊賀市島ヶ原4639
(一の鳥居前にP有、ただし隣の「島ヶ原運動公園」を利用する者が停めるので停められない可能性有り)

■延喜式神名帳
伊賀郡 鳥坂神社の論社

■旧社格
村社

■祭神
事代主命
[配祀] 大那牟遲命 神倭磐餘彦命 菅原道真 木花咲夜比賣命
[合祀] 市杵嶋姫命 建速須佐之男命 天照大神 豐宇氣大神 建御名方神 大物主神 大山祇神 品蛇和氣神 少那比古神 稻倉魂命


伊賀市の西部郊外、「木津川」北岸の丘陵頂に鎮座する社。
◎創建由緒等については境内石碑に刻まれており、その概要は以下の通り。
「天平勝宝四年(752)奈良東大寺の実忠和尚が開創された村内にある正月堂との関係が深い」と。これは東大寺の「お水取り」の起源とされる正月堂(一月堂)が、当村の「正月堂」という仏教施設が候補地の一つとして上がっていることによるもの。他の候補地は西隣の「笠置山」の巨大磐座「千手窟」 。
その実忠という僧侶が東大寺に二月三月両堂を開基、二月堂での「修二会(しゅにえ)」の行法に全国一万三千七百余所の神々を勧請の際、釣りをして遅参したという若狭国の遠敷明神(オニュウミョウジン)が悔いてその僧侶の夢枕に立ち、若狭の清水を献ずる云々…と。これが「お水取り」の起源譚。
そしてその僧侶が「遠敷明神を良弁杉の下に祀り、鸕に因んで『鸕宮社』と称し (以下略)」というのが当社創建譚。二月堂の鸕宮社を勧請したとしています。鸕宮社とは遠敷神社のこと。
◎以上に対して少々異なる創建説話を掲げているのが、神社本庁の祭祀祭礼総合調査。
「明細帳」(「神社明細帳」のことか)に、「創立由緒不詳ト雖モ延長風土記曰ク島ヶ原山出松竹柏有異鳥有神號天王社事代主之垂跡也」と。さらに続けて「土俗傳ニ曰ク人皇四十七代撥帝ノ御宇皇上近江保良郡ヨリ南都へ御幸ノ際當村ニ御休憩アリテ一ノ堂宇ヲ建設セント良辦僧正ニ命シテ観音堂建築セシメ是ヲ正月堂ト称ス (以下境内案内とほぼ同内容)」と。
◎二つの記述の大きな違いは、遠敷明神を祀っているのか、事代主神を祀っているのかということ。「明細帳」は「二月堂ノ香水ノ井邊ニ鵜宮神社アリ事代主之神ヲ祭リ…(以下略)」としています。
◎現在、東大寺二月堂には、北東側に遠敷神社が鎮座。案内には平安時代には既に二月堂近くに勧請されていたと。
一方で西側には興成神社が鎮座。こちらにはかつて「良弁杉」があったとされ、鵜が地面を突き破って出てきたことから鵜を祀る社とされています。
◎以上から長い歴史のうちに伝承が混乱錯綜しているように思われます。歪められているとはいえ伝承を整理するなら、興成神社から鵜(鸕)を神格化した神を当社に勧請したということになるのかと。その神格化された神に事代主神を宛てたものと考えます。
◎当社は式内社 鳥坂神社(伊賀郡)の論社として挙げられています。理由は不明。「明細帳」にいう「異鳥」からでしょうか。そもそも阿拜郡に鎮座しており、また遷座の記録も無く、仮にあったとしても由緒から判断するに「島ヶ原」内であろうことから、比定には難があるかと思います。


駐車場はこの左右に10台近く有りますが、隣の公園利用客が停めているため、当日は1台分の空きしかありませんでした。

石段は少々きつめ、125段あるとする資料も。