安部神社 (伊賀市上野下幸坂町)


伊賀国阿拜郡
伊賀市上野下幸坂町(詳細住所不明)
(「鍵屋ノ辻 史跡公園」Pに停めましたが駐車可能かどうか確認できていません)

■祭神


「日本三大仇討ち」として知られる「鍵屋ノ辻」の南側に鎮座。近江、大和、伊勢などへ6方面からの道路が接続する要衝。
◎創建由緒等については社頭案内板に、四道将軍の一人として北陸道へ向かった大彦命が「(第8代)孝元天皇十一年四月帰還復命後当地方に永住せられ その子孫である安部臣一族がその祖神として祭祀した。御鎮祭の年月は詳ではないが旧記等により古い御社である」と。
◎安部臣について、「新撰姓氏録」には「左京 皇別 阿閇臣 阿倍朝臣同祖」と。また「阿倍朝臣」は「左京 皇別 阿倍朝臣 大彦命之後也」とあります。さらに「右京 皇別 阿閇臣 大彦命男彦背立大稻輿命之後也」と(御子の彦背立大稻輿命の後裔であると)。
紀には大彦命が阿倍臣や阿閇臣、さらに伊賀臣など七氏族の祖であると記されます。
◎当社を安部臣一族の総氏神とみるのかどうかで意見は真っ二つに。
「日本三大実録」には伊賀国正六位の安部神が従五位下の神階を授かったとあります。これを当社に宛てているのが「安部神社考」という書。また「三国地誌」は当社を、「阿閇忌寸が霊を祭りて阿拜一郡の惣社とす」と。
これに対して真っ向から否定しているのが「三重県神社誌」。「安部神社考」の説に対しては「甚シキ失考」、「三国地誌」の説に対しては「詮ナシ」と酷評し撥ね除けています。安部臣一族の総氏神はあくまでも敢國神社と考えているのでしょうか。安部神への神階授与はどうなるのか。
◎遷座は二度あったと伝わっています。原初は伊賀上野城内、西の丸の地に鎮座していたようです。もちろん当社が先で伊賀上野城は後からの築造。天正年間((1573~1593年)の築城に伴い「小田村馬苦労町」の西に遷座。その地は「阿閇神田」として残されていたようです(現存するかどうかは不明、またかつての小田村は小田町となり、「馬苦労町」がどこであったのかは手元のあらゆる資料を探るも今のところ確認できていません)。そして元禄年間(1688~1704年)に現社地へ遷座。
社殿は老朽化、境内も荒廃寸前といった有り様。この先が少々心配です。


こちらが参道。



こちらは「鍵屋ノ辻」側の「伊賀越資料館」。当日はコロナ禍で閉館中。こちらからもアクセス可。

その脇の矢尼母神社(後ほど記事UPします)の鳥居を潜り、さらにその脇から当社境内へ通じています。