潮崎本之宮神社


紀伊国牟婁郡
和歌山県東牟婁郡串本町串本1517
(境内に駐車可)

■延喜式神名帳
海神社 三座 の論社

■旧社格
郷社

■祭神
底筒男命
中筒男命
表筒男命
[配祀] 事代主命 神功皇后 武内大臣


本州最南端、「潮岬」がある半島の付け根にあたる所に鎮座する社。
◎社伝によると「神功皇后三韓を伐ちて御凱神の帰途 都で忍熊王の謀反をおこしていると知り 皇后は武内大臣に皇子(応神天皇)を守護し紀伊に趣かしたが 南海に漂うた末に当地の旧名大水門浦に着かれ そのときに当地に住吉三神の大神を祀られ海神社本之宮と称した」と(和歌山県神社庁データより孫引き)。
◎「由緒」(元禄十年、1697年)によれば、応神天皇による創建とされます。また「縁起」(天明八年、1788年)には「(応神天皇が)南海に舟を浮かべ大水門浦へ舟を寄せさせ給ふ其の時此の社を建てさせ給ひ三神の大神を祭り給ひて海神社本宮となす」と。これらからみるに、近世には応神天皇による創建と捉えられていたようです。
◎半島の最南端(本州最南端)には潮御崎神社が鎮座しています。当社にはその御崎明神の旧社地であるとする伝承があります。
「紀伊続風土記」にもその旨の記述あり。当社神主 小原右近氏は、当社ご祭神は三座で住吉三神であるが、本来は御崎明神(少彦名命)、住吉三所、熊野三所の三座であろうとしています。そしてこれが現在の定説であると。これについては「寛文紀」という書において、当社ご祭神が「本の神一座」であるからと理由付けしています。
「寛文記」という書については不明。書名から寛文(1661~1673年)、もしくはすぐ後の時代頃に編まれたものと思います。これだけを根拠とするにはあまりに脆弱な説かと思われるので、他にも何か傍証となるものがあるのでしょうが。
◎境内及び周辺は「笠嶋遺跡」。弥生時代後期の木製品や木器などが発見されています。中でも特筆すべきは全長8m級の構造船。徐福が関わったのではないかという説も飛び出すほどのもののようです。
古代においては「潮岬」は離島であり、当地「笠嶋遺跡」は入り江であったとされます。地形から考えると「潮岬」は神島であろうかと。少彦名命を来訪神とするなら、来訪してきた所が「潮岬」であり、また「常世の国」へ旅立ったのも「潮岬」から。「潮岬」に祭祀場が設けられ、当社はその遥拝所だったのではないかと想像を働かせてみました。
◎ご本殿脇にどっしりと根を下ろす巨樹は、樹齢1200年とされる「柏槙(びゃくしん)」。
当地名「串本」は、「奇しき樹」、「霊し樹」、「霊樹の下」と順に変化し最終的に落ち着いたものとされています。