波多神社 (明日香村冬野)


大和国高市郡
奈良県高市郡明日香村大字冬野152
(車は200mほど手前の「良助親王 冬野墓」前に停めました)

■延喜式神名帳
波多神社 鍬靫 の比定社

■祭神
事代主命


明日香村の西方、高所集落「冬野」地区の最奥に鎮座する社。標高はおよそ680m。談山神社がある「多武峰」から吉野へ抜ける最短ルートとして、古代より利用されていたようです。通称は「上畑」。これは「大字畑」が「下畑」と呼ばれるのに対してのもの。
◎創建由緒に関しては不明のようです。社名や地名から波多氏、或いは秦氏との関連が見出だせます。
波多氏は武内宿禰の長子 波多八代宿禰(八多八代宿禰)を祖とする氏族。「新撰姓氏録」には派生であろうものを含め、いくつかに跨がり記されます。うち当地を拠点としたのは波多祝氏(ハタノハフリノウジ)。高皇産霊命の孫 治身の後裔とされます。
◎波多八代宿禰は神功皇后の三韓征伐に従軍しています。また応神天皇の御宇、百済の辰斯王(シンシオウ)が天皇に対して無礼をはたらいたとして、弟の紀角宿禰とともに百済に派遣され詰問しています。
波多氏の中には百済からの渡来系氏族もいます。また神功皇后との接点もあるなど秦氏との繋りも窺えます。
◎ご祭神は事代主命とされるものの、当社は波多祝氏の氏神であり、本来は祖神である八多八代宿禰または高皇産霊命を祀る社であったと思われます。
崇神天皇の御代に波多国造(土佐国の西部)となった波多氏の一族がおり、祖神は天韓襲命。事代主命の御子または孫とされており、それが基になっていると考えています。三輪氏や尾張氏の系譜にも現れているため、当地にも関わりがありそうです。
◎高取町に波多甕井神社が鎮座します。こちらは推古天皇廿年の条に「…の五日薬猟す。羽田(波多のこと)に集ひて相連なりて朝(みかど)に参趣く」と。
当地にも薬の製法が伝わっているらしく、「大同類聚方」という平安時代の医学書に、「志路木薬」を新羅国鎮明之伝方、波多神社所伝として記しているとのこと。波多甕井神社は式内大社。波多氏の鎮守社とされており、高所から麓へ部族の一部移動があったのだろうと思われます。


車は「亀山天皇皇子良助親王 冬野墓」前に停め置き、歩いて登りました。


道は二手に分かれますが右へ。左は多武峰へ抜ける杣道。

獣除けに高圧電流が流されています。村の方に外し方を教わり、冷や冷やもので通り抜けました。




多武峰へ抜ける杣道。