☆ 三住の稚児石


大和国宇陀郡
奈良県宇陀市榛原石田
(駐車、アクセスは下部写真にて)


宇太の水分社に関わる「芳野川」の畔に座す、「稚児石」という岩。
鳥居が設けられていることからこれは「神石」。


伝承など、いくつかの要点が存在しているようです。
◎「榛原石田」と「榛原栗谷」の境界に座していること
◎少なくとも鎌倉時代より、上下の水分神社の境界点とされること
◎稚児の足跡と言われる窪みがあること

上の二つは共通するもの。
つまり「上の宮」の水分社は「榛原石田」、「下の宮」の水分社は「榛原栗谷」に属しているということに。


ここで整理しておかねばならぬことは、
「芳野川」沿いには水分社が三社もあること。


上流に位置する社から並べ書きました。
上社を本とし後に中社下社が創建された、あるいは上社が後から創建されたと、経緯の真相は分かっていません。

中社下社で一グループということは明確。

「水分(みくまり)」とは「水配り」のこと。
農耕においてかけがえのない用水の利権を巡って、村同士の葛藤は激しいものであったことは容易に想像されます。

三社とも水分社には似つかわしくない平地に鎮座しており、まさしく「水配り社」。


ここで言う「上下の水分神社」とは、中社下社のこと。宇陀郡の「上県」が中社、「下県」が下社でした。

鎌倉時代の絵図に、この「稚児石」と「尾崎の一本杉」を結んだラインが、「上県」と「下県」の境界であったと描かれています。

既に「尾崎の一本杉」は消滅しているようです。


次に「稚児」の件。

以下の伝承があります。
「上水分社(中社のこと)と下水分社(下社のこと)に奉仕するお稚児さんを募集したところ、13人が集まりました。上・下で半数に分けましたが、1人が余ってしまいました。くじ引きで決めようとしましたが、その児は悲しみ、怒りだし、傍らの大石に足を踏み込んだ所、抜けなくなってしまいました。人々は大慌て。神官の祈祷によって無事に足は石から抜けたとのこと。その後、両社はその児を神の子として大切にした」(伊那佐地区まちづくり協議会HPより)

この神となった稚児というのが、上社の童神ではないかと考えられないでしょうか。


閉館した「伊那佐文化センター」
方角はセンターから北西。写真中央に微かに鳥居が見えます。

道順はセンターから真っ直ぐ北へ100m余り。




この窪みが稚児の足跡。