☆ 神功皇后 狹城盾列池上陵 (五社神古墳)
(さきのたたなみのいけのえのみささぎ ごさしこふん)



大和国添下郡
奈良市山陵町字宮ノ谷
(P無し)



「佐紀盾列古墳群」の西端に全長267mもの規模を誇る前方後円墳。全国第12位、神功皇后陵に治定されています。

紀や延喜式には神功皇后陵は「狹城盾列池上陵」と記されています。
「佐紀盾列古墳群」の中では最大規模。この後「古市・百舌鳥古墳群」へと築造場所は次第に移りさらに巨大化しますが、神功皇后陵より先の時代の御陵はありません。したがって規模の点からは、当古墳が神功皇后陵に該当するものかと。

「佐紀盾列古墳群」及び周辺地区の巨大古墳を、推定築造年代順に並べると以下のように。
日葉酢媛陵(第12代垂仁天皇皇后)…全長207m
垂仁天皇御(第12代天皇)…全長227m
成務天皇陵(第13代天皇)…全長218.5m

ちなみに夫の第14代仲哀天皇の御陵は全長242m。御子の応神天皇陵は全長420m。ともに「古市・百舌鳥古墳群」内にあります。

「続日本紀」には日葉酢媛陵と入れ替わって考えられていたので正したという記述がみられます。ところがまた分からなくなってしまい、日葉酢媛陵が神功皇后陵に、当古墳は孝謙・称徳天皇陵に宛てられていたようです。これが正されたのは幕末。

規模も時代もともに整合性はあります。ところが神功皇后が実在したのかどうか、モデルはあったが史実とは大きく異なるのかどうか、いろいろと問題はありますが。

加えて成務天皇や仲哀天皇も同様に。神功皇后は天皇であったという考えも。神功皇后についてはこれまで傍観してきた対象でしたが、そろそろ重い腰を上げていきたいと考えています。

なお「五社神古墳」という古墳名は、かつて後円部の頂に祠(神社)があったことによるもの。


進入路は南西方向から。

過去に訪れていた時と比べて、ずいぶん整備がなされたように思います。