宮地嶽神社


筑前国宗像郡
福岡県福津市宮司元町7-1
(P有)

■旧社格
県社

■祭神
息長足比売命
勝村大神(藤之高麿)
勝頼大神(藤之助麿)


福津市の市街地から北方、当社からは東方の美麗な「在自山」(標高237.5m)を神奈備山とする社。また近年CM等でも取り上げられた、沖合い西方10km足らずの「相島」から年に2回朝日が登り、そこに向かい真っ直ぐに伸びた800mもの参道が有名な社。日本一の大きさを誇る注連縄も。
パワースポットなどと称され、スピリチュアル系やおめでたい輩たちが押し寄せるという惨状に成り果ててしまった社でも。
◎創建についての社伝は以下のもの(当社公式HPより)。1700年前に神功皇后が「宮地岳」山頂にて「大海原を臨みて祭壇を設け」、天神地祇を祀り「天命を奉じてかの地に渡らん 希(ねがわ)くば開運を垂れ給へ」と祈願し、三韓征伐へと船出したとされています。
「宮地岳」とは「在自山」の尾根続きの山。「大海原を臨みて…」とあるように、やはり海神への意識が働いていることが分かります。天神地祇を祀ったのではなく、海神を祀ったという考えも成り立つかと思います。もちろん海神が鎮まるのは「相島」。奥之宮 不動神社の「宮地嶽古墳」(別記事を上げます)は「相島」から運んだ石で石室が造られているようです。祭祀跡は古宮跡として残されています(別記事を上げます)。
◎その海神は宗像神であるとされています。また「宮地嶽古墳」は宗像徳善(大和国城上郡 宗像神社の記事参照)のものとされます。
これが一般的な見解ですが、甚だ見当違いもいいところ。「宮地嶽古墳」は発見された出土物から、宗像徳善よりも100年ほど後に築造されたことが分かっています。また木製棺であること、豪奢な出土品、これらは大和の天皇級、あるいはそれをも凌ぐもの。宗像徳善であるはずもなく、これはまさしく磐井一族のものとするべきかと。式内社と成り得なかったのも朝敵を鎮めたからと解するべきかと考えています。
◎築紫君磐井の墳墓は八女古墳群の中の岩戸山古墳とされます。それが事実であるとするなら、謎のご祭神である勝村大神(藤之高麿)と勝頼大神(藤之助麿)は磐井一族の者であり、古墳の被葬者と考えられないでしょうか。公式には神功皇后三韓征伐に従軍したとしていますが、磐井一族の可能性が高いと考えています。「宮地岳」山頂から現社地に遷座されたのは、この時であろうと。
◎海神については宗像族なのか、安曇族なのかは不明。宗像郡に属していますが、宗像大社(記事未作成)は山地を隔てた北東方向であり、宗像族に限る必要性はないかと考えています。

※写真は2016年1月撮影のものです。
※古宮跡、奥之宮八社などについては後ほど記事UPします。



古代は石段の下からが海だったと伝わります。


日本一の注連縄。


この先に「相島」。