角宮神社
(すみのみやじんじゃ)


山城国乙訓郡
京都府長岡京市井ノ内南内畑35
(P無し、社前のゴミ集積所内に停めました)

■延喜式神名帳
乙訓坐大雷神社 名神大 月次新嘗 の論社

■旧社格
村社

■祭神

[配祀] 玉依姫命 建角身命 活目入彦五十狹芽尊


京都市南西部の長岡京市、向日神社の西500mほどに鎮座。また長岡京跡からは西1km足らずほどの密集市街地内。かつては上下賀茂社と同格の屈指の大社であったにも関わらず、残念ながらゴミ集積所が境内前にあるなどを、存在感も薄く参拝者もほとんどいない状況に。
◎「式内名神大社 乙訓坐大雷神社」(火雷神社とする書も有り)の論社(以下「山城国風土記」に倣い「乙訓社」にて)
「山城国風土記」に「賀茂建角身の娘玉依比売が瀬見の小川より流れて来た丹塗矢を枕元に置いて寝ると別雷命を生んだ (中略) 丹塗矢は乙訓郡の社に坐す火雷命である」とあります。これが「乙訓社」の記述。
◎(賀茂建角身命と玉依姫命の父娘を祀るのが賀茂御祖神社(下鴨神社)、生まれた賀茂別雷命を祀るのが賀茂別雷神社(上加茂社)、丹塗矢の火雷命を祀るのが乙訓社。つまり三社は記述からも同格同列であり、神名帳においても神階授与においても同格同列でした。
◎当社とは別に向日神社に併祭されたとする説もあります。これは中世に焼失あるいは荒廃したために異なる伝承が生まれてしまったことによるもの。
◎承久の変(1221年)により社殿焼失、廃燼に帰したとされるのは当社社伝。かつては500m程度西の「宮山」(現在も地名は残るが痕跡無し)に鎮座していたものの、再建は室町末期になってからであると。
一方、承久の変にて天皇側に組して敗れた六人部氏(ムトベノウジ、乙訓社の神主を務めていた)が、丹波へ遁世したため荒廃、孫の代に併祭したとするのは向日神社の社伝。
◎創建についても異なります。当社社伝によると継体天皇六年(512年)、勅命にて創建鎮祭したとしています。これは継体天皇が「樟葉宮」から五年(513年)に「筒城宮(綴喜郡)」へ、さらに十二年(518年)に「弟国宮(乙訓宮)」へ遷都したことと関連付けられます。「弟国宮」は詳細地不明ですが長岡京市北部とされるため、当地周辺であったかと思われます。
◎一方向日神社は、神武天皇が当地に移住し「向日山」麓に火雷大神を祀ったのを創建としています。記紀やその他の書には見えないものであり、これは由緒を高めるための創作話かと。そもそも賀茂氏が山城国に進出してきたのは5世紀頃と考えられ、おそらくそれ以降のことかと。賀茂氏が当地に進出したのと同じく、同地同時期に進出して来たとされるのが秦氏。賀茂氏と秦氏が、継体天皇の「弟国宮」造営に関わったとみられます。向日神社創建もこの頃ではないかと。
◎以上のように「乙訓社」を巡ってはともに相応の由緒を抱えており、両社決し難しというのが現状かと思われます。

*写真は2017年8月撮影のものです。


社前のゴミ置き場。ここまで酷い扱いを受けている神社は記憶にありません。