荒見神社 (城陽市)


山城国久世郡
京都府城陽市富野荒見田165
(P有)

■延喜式神名帳
荒見神社の論社

■旧社格
村社

■祭神
天火明尊
天香語山尊
天村雲尊
阿比良依姫尊
木花咲耶姫尊


式内社 荒見神社を巡っては二社が論社として挙げられ、当社はその一。比定はいずれとも決め難く、ともにそれらしき由緒は持ち合わせるものの、ともに決定的な由緒を持ち合わせていません。
当社は城陽市郊外、北西側一面には田畑が広がる至って平坦な地に鎮座。豊かな樹叢に覆われます。
創建は大化三年(647年)、「小篠峯」に当地管領であった三富野部連金建という者が、社殿を設け五柱を阿良美五社大明神として鎮祭神したとされます。ゆえにこの山麓一帯を「五社ヶ谷」と称したらしく、奈良街道に面する聖地であったと。
この「五社ヶ谷」については現在も東方1km余りに地名が残っています。真東であった可能性も考えられますが、大半が開発されてしまい残骸すらも無し。「五社ヶ谷」の地名と、その北側の「狼谷」(「大神谷」からの転訛か)が痕跡となるでしょうか。
現社地への遷座は寛正二年(1461年)、かつての神幸御旅所の地。当時から明治までは安羅見五社天神宮と称したとされます。山から里へとより人民の近くに降りてきたということもあるのでしょうが、南西を流れる木津川の「永代安泰」(社伝による)の意味合いもあったかと考えられます。
ご祭神は五座が列していますが、神名帳においては一座。創建当時から「五社大明神」と社伝にはありますが、これは後の時代に五座となったもので間違いであろうかと思われます。もう一社の論社の同名社(記事未作成)も「五社」云々の伝承があるのは偶然でしょうか。「山城国風土記」逸文には「荒海の社(祗の社) 名は大歳神」と記しています。「祗」つまり国津神のことであり、本来は五穀の神である大歳神が祀られていたと。
上述の通りかつて御旅所であった地に遷座されています。旧社地は神奈備山であり、山の神霊(山神でもあり五穀の神でもあった大歳神)が毎年降りて来る地が御旅所(現社地)であったという、太古からの一般的な信仰がみて取れます。そこに三富野部連金建なる者が祖神である天神五座を勧請、当時は境内社レベルであったものがいつしか主祭神へと変化した可能性があると思っています。
なお三富野部氏は、「新撰姓氏録」に「山城国神別(天孫) 火明命之後也」と記されます。「勘注系図」には、建田背命(火明命六世孫)が久世郡水主村(西方2kmほどに水主神社が鎮座)に移住、さらには大和国へ移ったと記されています。これを踏まえれば、本来の一座は火明命であった可能性も。





天児屋根命を祀る境内社 御霊社。

「菊水の神座」というもの。昭和60年に設けられたとのこと。