加茂神社 (海南市下津町)


紀伊国海部郡
和歌山県海南市下津町下567
(境内に駐車スペース有、やや道は狭いが十分に通行可)

■祭神
別雷神
品陀別命


和歌浦湾の南岸近く、「加茂川」の下流の山頂付近に立派な社殿を構えて鎮座する社。
◎創建は欽明天皇の頃、下鴨神社より勧請されたとしています。この時代、当地一帯が上下鴨社の社領となっていたようで、「加茂川」上流に鎮座する立神社は上賀茂神社より勧請されたとしています。立神社は当社の奥宮であるとも。
当社はその鴨系の神社と八幡系の神社が合わさったもの。相殿として品陀別命が祀られます。後奈良天皇 天文十八年(1549年)の時代に、加茂城主により勧請されたと伝わります。
◎これほどの荘厳な社殿を構えているにもかかわらず、式内社とはなっていないのは、栄えたのが八幡神を勧請してからのことかと。そもそも欽明朝に、当地が上下鴨社の社領となっていたこと自体も疑問。「賀茂御祖神社略誌」によれば、寛治四年(1090年)に「紀伊国仁義荘公田三0町」が寄進されたと見えます。「仁義荘」とは当社から立神社の鎮座地を含む一帯かと思われます。他に紀伊国内で社領となったのは、前年の「紀伊浜」(詳細地不明)のみ。実際の創建はこの頃であり、加茂城主であった加茂氏が出自を誇張するために欽明朝にまで遡らせたのではないでしょうか。
◎これらの思料とは異なり、神武東征時に皇軍を熊野から先導した八咫烏の一族が、元々拠点としていた地であった可能性もあると考えています。
◎当地の伝承を丹念に調べ上げ、名草邑(海部郡を含む)の古代史を復元させたなかひらまい氏によると、八咫烏は「山の方」に住んでいた部族であるとしています。紀元前3000~4000年前に九州から移住し平地で農耕生活を営んでいた名草邑の人々に対して、それ以前からの先住民族として「山の方」で狩猟生活を営んでいたのが八咫烏。お互いに相容れることがなかったため、皇軍に就いたのであろうと思われます。鴨族と八咫烏は切っても切れない近しい部族。個人的な推量において当地を八咫烏の根拠地の一つだったと考えます。