志布比神社 (京丹後市網野町)



丹後国竹野郡
京都府京丹後市網野町浜詰
(境内に駐車可)

■延喜式神名帳
志布比神社の比定社

■旧社格
村社

■祭神
櫛八玉比売命
塩椎神


風光明媚な観光地として有名な「夕日ヶ浦」に鎮座する社。海岸の観光スポットととして人気の巨岩奇岩は、当社の神域かと思います。
当社にまつわる伝承は多くあり、さまざまな古書に似たようなものが書かれています。それらを精査し矛盾点を洗い出し、独自の見解を加えたのが「網野町史」。ここではその書を基にします。
◎まず当社を式内社 志布比神社、御来屋神社(みくいやじんじゃ)、若宮神社の三社が合体したものとしています。
◎志布比神社にまつわる伝承として、新羅国王子であった天日槍神が垂仁天皇の御代、九つの品物(日の鏡・熊の神籬・出石の太刀・羽太玉・足高玉・金の鉾・高馬鵜・赤石玉・橘)をこの国に伝えて天皇に献上したというもの。
この時、天日槍神の船は「筥石(箱石)」に到着。水先案内をしたのが塩土老翁(塩椎神)であると。「筥石(箱石)」は当社地から西へ2~3kmの海岸かと思われます。そして先導した塩土老翁の神霊を「塩井の濱」の清き地を選び、「宮故(くご)」という地に鎮めて祀ったのが当社ということに。この「宮故」は「供御」(天皇や貴人の食事)と捉えることができ、御厨と大いに関係があります。
なお天日槍神はこのあと、但馬国出石郡に鎮座しますが、九つの神宝を献じたのはそこでのことのようです。
◎御来屋神社(みくいやじんじゃ)については、社名から「御厨(みくりや)」の転訛であろうことが分かります。
この社は海上から流れ着いたとしています。着いた場所は「塩井」。「丹後舊事記」には出雲国の日の岬からと。ところが「丹哥府志」には4、5年経てから伯州(伯耆国)御厨の人が来て、船を「夕日の浦」に泊めました。この夜に山岳が鳴動しましたが、これは御厨にかつて洪水が起こった時と同じと。つまり蔑ろにされていたので「神がお遷りなられた」と考え、宮殿を建てて御来屋大明神としたとあります。
元の鎮座地が出雲国の日の岬と、伯耆国の御厨とで分かれています。伯耆国の西部、現在の名和町に御来屋(もしくは御厨)という集落があったとされ、こちらの方ではないかとしています。なお御来屋神社は後醍醐天皇が隠岐に配流されたときの守護神であり、御来屋大明神として祀られていたのが櫛八玉比売命のようで、村社に列格しています。
◎若宮神社については、御来屋神社の側に鎮座していたとされています。若宮売命と豊宇加能命を祀るとされ、この2座を同神とするなら1座ということに。したがって現在の志布比神社を3社の合体した社とするなら、本来のご祭神は4座(3座)であろうかと思われます。
◎これら3社が「塩井」で合体したと導き出されていますが、どんどん人口が増して穢れていったとされ、現社地に遷されたとしています。この辺は少々曖昧さが拭えませんが、当地も巨岩奇岩が密集し太古より聖地と崇められていたのでは思います。
◎なお式内社 志布比神社の論社として、京丹後市丹後町の志布比神社(塩干神社)も挙げられています。










境内から愛宕社への山道があります。




丘陵上には磐座らしきものが散在。