植槻八幡神社


大和国添下郡
奈良県大和郡山市植槻町5-2
(P無し、2h無料の郡山城ホールP利用がおすすめ、徒歩10分ほど)

■祭神
誉田別命


平城京の裏鬼門に位置する社、植槻寺の鎮守社であったと考えられています。また郡山城が築城されてからは城下町「武家地」となり、当社を取り巻くように武家の邸宅が数多く建ち並んでいたようです。
◎創建由緒等は不明ながら、「裏鬼門」という鎮座地から平城京を守護する社であったものかと。「元享釈書」という書には、「植槻道場に維摩経…云々」との記述が見られ、平城京遷都の前年(709年)には仏教施設の方は創建されていたものと見られます。当社そのものは不明。その仏教施設は当地より北西三町にあったと伝わりますが場所の特定はなされていないようです。
◎境内社として、植槻坐藤原神社と植槻坐魚名神社が鎮座。植槻坐藤原神社は藤原不比等・武智麻呂・仲麻呂がご祭神。当社側は平城京遷都に功労があり当社に関係の深い三座であると。
一方の植槻坐魚名神社は天押雲根命がご祭神。一般に「水を司る司祭者」といった見方とされますが、当社側は「憑依神・神託神」としています。いずれにしても藤原氏が関与し、平城京を守護する社であったかと。ちなみに表鬼門には東大寺が建立されています。
◎植槻坐魚名神社は通称「金魚神社」。金魚の町として知られる大和郡山市ならではのもの。こちらは「力をつけた金魚は、赤い髭を持つ青龍に変化して水を司る」という中国の故事に因んで青龍神を祀っているとも。これはおそらく平安京に遷都されて以降に祭神替えされたものと思います。
◎「植槻(殖槻)」について当社は、「『白村江の戦』後に高句麗から日本に帰化した高氏は『殖槻連』を名乗り、雅楽寮小属・陰陽頭兼陰陽師・遣唐留学生・金工・画師が任用の官職・専門分野であったという」と。
「新撰姓氏録」には「高氏」の項が2ヶ所、「高史」の項が1ヶ所あり、いずれも高句麗国からの帰化人であると記されます。
高氏が殖槻連を名乗ったということに関しては、引用元の資料が分からず不明。「続日本紀」の大宝元年八月の条に、高氏とともに殖槻連が位階を授かった旨が記されています。
◎「枕草子」に「森は うゑつきの森」とあり、森について記した中の筆頭に挙げられています。
また「万葉集」巻十三には、「我が思ふ 皇子の命は 春されば 殖槻が上の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 国見遊ばし」(長歌より抜粋)と見えます。これは高市皇子が「植槻の丘」に登り国見をしたという歌の一部。いずれも特別な地であるとの認識があったのだろうと思います。
◎奈良に都があった時代は大変に重要な社であったものの、京へ遷都されて以降は衰微したようです。郡山城の築城とともに復興しますが、武家の守護神として誉田別命を祀る社へと変遷したことが窺えます。あまりに寂れてしまった現状はとても残念に思います。

※2018年の大型台風に被災し、現在は境内社への参拝ならびに立ち入りは禁止(2021年2月現在)。コロナ禍ということもあり有名な「おんだ祭り」も行われないそうです。

※写真は2019年1月と2021年2月撮影のものとが混在しています。


寂れた裏路地に鎮座。外堀の内側、かつては武家屋敷が建ち並んでいました。





ロープが張られここから先は立入禁止。まる2年経っても一向に修繕がなされないということは、この先も…と懸念されます。



狛犬も崩壊。頭は後に転がっています。