熊野那智大社


紀伊国牟婁郡
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
(周辺に有料P有、500円~近いところは800円、いずれも10~15分程度の急な石段を登る必要有、買い物や食事をするとP無料になる店がいくつか有り)

■社格等
[旧社格] 官弊中社
[現在] 別表神社

■祭神
◎上五社
[第一殿 瀧宮] 大己貴命
[第二殿 証誠殿] 家津御子大神・國常立尊
[第三殿 中御前] 御子速玉大神
[第四殿 西御前] 熊野夫須美大神
[第五殿 若宮] 天照大神
第六殿八社殿 
◎中四社
[禅児宮] 天忍穂耳尊
[聖宮] 瓊々杵尊
[児宮] 彦火火出見尊
[子守宮] 鵜葺草葺不合命
◎下四社
[一万宮] 國狭槌尊 [十万宮] 豊斟渟尊
[米持金剛] 泥土煮尊
[飛行夜叉] 大戸道尊
[勧請十五所] 面足尊


「熊野三山」の一社。「那智御瀧」に対する信仰に端を発すると考えられ、その起こりは上古からのものと思われます。原初は「那智御瀧」の側に鎮座していたと考えられています。
◎創祀創建については確定していません。慶雲三年(706年)の熊野牟須美神に対する神封の授与があり、それ以前に遡るとする説が有力でしょうか。ただし延長五年(927年)の神名帳には漏れており(速玉大社本宮大社は式内社)、それ以降とするものも。
◎「熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記」という書には、第5代孝昭天皇の頃にインドからの渡来僧が十二所権現を祀ったのを初めとしています。
ところが十二所権現という形式が成立したのは、平安末期であろうと考えられています。また孝昭天皇は欠史八代とも言われ、このような時代に創祀がなされたとは考えにくいかと。
◎一方で「熊野略記」という書には仁徳天皇頃に鎮座したとされています。
◎中世頃には数多の縁起書が作成されており、その中身は多様。既にその頃には創祀創建年代が分からなくなっていたように思います。これほどの大瀧を古代人が崇めないとは考えにくく、創祀は上古に遡ると考えます。
創建については式内社に漏れていることから、やはりそれ以降になされたものと考えます。また鎮座地は「那智山」のさらに奥地の「妙法山」であり、「那智御瀧」はその禊祓所であったとする考えも。
◎ご祭神については主祭神は熊野牟須美神(熊野夫須美神)。御瀧に対して熊野三神のうちの一柱をあてがったかと思われます。慶雲三年の神封授与があることから、少なくともその時代には熊野夫須美神とされていたことが分かります。永観二年(984年)の「三宝絵詞」も熊野夫須美神としています。「熊野夫須美神社」と称されていた時期もあるようです。
有史以前から信仰があったと考えるなら、その頃は御瀧そのもの、いわゆる自然神であったことと思います。
◎ところが一方で事解之男神とするものも。事解之男神はよく分からない神。「解(さか)」が「離(さか)」と同義であり離縁と捉え事態の収拾を図るとか、「事解」を「言解」として物事をよく理解する神という曖昧模糊としたもの。また熊野牟須美神は通常、イザナミ神とされますが、熊野櫲樟日命とするものも。
◎飛瀧神社(現在、記事改定作業中)は当社別宮。また「那智浜」に鎮座する熊野三所大神社(現在、記事改定作業中)は当社の関連社と考えられ、浜ノ宮王子跡はかつて当社の末社でした。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。


こちらが表参道、かなりの急勾配の石段を登らねばなりません。


こちらが一の鳥居。

二の鳥居







御縣彦社







隣の青岸渡寺から見える那智御瀧。

一の鳥居すぐの児宮(多富氣王子神社)。彦火火出見尊を祀ります。