矢宮神社
(やのみやじんじゃ)


紀伊国名草郡
和歌山市関戸1-2
(境内に駐車可)

■祭神
賀茂建津之身命
[配祀] 吉井駒島神


神武東征の際に皇軍を熊野から大和へ導いたのは「八咫烏」とされますが、その「八咫烏」は賀茂建津之身命の化身であるとする伝承は多く、当社もその一つ。
◎当地(名草郡)と熊野(牟婁郡)とは、大きな紀伊国の端と端。当地に建津之身神が祀られているのは、後裔である矢田部氏が上祖神を祀ったものと見られているため。時期は推古天皇の御代。当地は建津之身命が名草戸畔を討った地を選び定めて祀ったとしています。伝承地は他にもあり、また建津之身命が討ったのかどうかも定かではありません。そもそも名草郡で神武軍は敗戦したのであり、名草戸畔は討たれていない可能性もありそうです。
◎社名は上記の通り名草戸畔を矢で討ったからということになるのでしょうが、これは後世の付会である可能性も。矢田部氏が奉斎した宮であったからと考えることもできそうです。
◎当地の伝承を丹念に調べ上げ、紀伊国の古代史を復元させたなかひらまい氏によると、この「八咫烏」一族は名草邑に人々が九州より移住してきた時には既に当地で生活を営んでいた先住民族であろうとしています。
名草邑の人々は紀元前3000~4000年頃に九州から移住し農耕生活を行っていたのに対し、先住民族である「八咫烏」一族は主に山で狩猟生活を行っていたのであろうと。両族が融合することは無く、住み分けができいたのではないかと。そして神武軍が当地で名草邑軍と戦って追い出された際には、神武軍に付き熊野から山越えの先導をしたのではないかと。
当社が創建された時代には既に、皇軍が「名草戸畔を誅した」(皇軍が勝利した)ということになってしまっており、名草戸畔が当社地で討たれた云々の伝承が作り上げられたのかもしれません。仮にそうであるとすると、書紀編纂を指導した天武天皇により伝承が作り上げられたとするのが自然で、すると当社創建も天武朝ではないかという考えも。それ以前は神武軍が敗戦したこともあり大和朝廷の支配が名草郡には及んでおらず、天武天皇によって強圧的に当地支配を進めたと考えられます。
◎当社が興隆したのは雑賀党の守護神となっていたこと。信長による雑賀攻めの際に、雑賀孫市に神託があり難を逃れたとあります。結局戦渦により焼失しますが徳川家により再興され現在に至っています。