射箭頭八幡神社
(いやとはちまんじんじゃ)


紀伊国名草郡
和歌山県和歌山市本脇260
(P有、鳥居と反対側の西側)

■旧社格
村社

■祭神
応神天皇
息長足姫命
日本武命


「加太(かだ)」の東方、「磯の浦海水浴場」で知られる地、「本脇」集落内に鎮座する社。
◎鎮座地一帯からは「西庄遺跡」が発見されています。弥生時代から連綿と続く遺跡。居住跡や製塩土器などが発見され、最盛期は古墳時代。製塩においては紀伊地方の先駆的な地であったことが分かっています。
◎当社にまつわる伝承がいくつか残っており、和歌山県神社庁は以下3例を掲げています。
◎まず一つ目。神功皇后が三韓征伐より帰国後に当地へ立ち寄り、「鏑矢」を射たところ「紀水門飽浦の下地ヶ尾」に落ちます。そして皇后と品陀別太子(応神天皇)がそこを訪ねて鎮座させたというもの。ご神体は社名通りに「矢」ということでしょうか。
◎次に二つ目。皇后が「田倉崎(当地より西の半島先端)」に差し掛かったときに、強風が来たが祈ると収まったというもの。当地にすでに何らかの神が鎮まっていたということを示すのであろうと思います。
◎さらに三つ目。日本武命が「飽浦」に滞在したことがある由縁から、天児屋根命22世孫が応神天皇を主祭神として相殿に息長足姫命と日本武命を祀ったというもの。和歌山県神社庁は以上三伝承を上げています。
◎「紀ノ川」河口一帯は5世紀から6世紀前半にかけて紀氏が管掌していました。この紀氏は天道根命を始祖とし、大和朝廷に積極的に取り入り、朝廷の勢力拡大とともに紀氏も勢力を広げました。天道根命が「毛見郷琴の浦」(濱宮の記事参照)にて神武天皇により紀伊国造に任命された後、景行天皇の名代として紀伊国に下向した屋主忍男武雄心命に影媛を嫁がせて生まれたのが武内宿禰。
◎神功皇后らが本当に当地に立ち寄ったかどうかは不明ではあるも、当社創建については紀氏が大きく関わっていると考えてよさそうです。
また上記「西庄遺跡」からは、紀氏の奥津城とも言える「岩橋千塚古墳群」周辺からのみ出土する土器と同じものが当遺跡から発見されたようです。紀氏が当地で勢力を蓄えた背景には、製塩業が大きく寄与したと考えられます。
◎なお皇后たちが訪ねた際に弓の玄で切った餅を献上したという伝承から、その後は「糸切餅」が名物となり昭和の時代まで賑わっていたそうです。

*写真は2018年10月と2021年7月撮影のものとが混在しています。



2018年参拝当日は秋の例祭前日。氏子さんたちが一同に集まり準備をされていました。「糸切餅」のことを伺えばよかったと後悔を。