(大和国城上郡忍坂 玉津島明神)



絶世の美女、和歌三神の一柱とも言われる「衣通姫(ソトオリヒメ)」。その古事記説話を。

その前に記と紀では系譜、内容ともに異なります。当記事では記の方を。

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衣通姫は第19代允恭天皇の5番目の御子として生まれます。母は忍坂大中津比売命、名は軽大娘皇女(軽大郎女、カルノオオイラツメ)として。

その同母兄に木梨軽皇子がいましたが、なんと恋愛関係に。

ある朝、允恭天皇が朝食を取ろうとした際に、冬でもないのに汁ものが凍っていました。
これは身内に良くない事が起こっていると悟り、2人の間柄が発覚します。

木梨軽皇子の群臣たちはこれを知り離れて行き、穴穂皇子の元に就くようになります。

木梨軽皇子は第一皇子、穴穂皇子(後の安康天皇)は第二皇子でした。

允恭天皇が崩御すると、次期天皇には大勢の支持を得た穴穂皇子が擁される勢いに。
木梨軽皇子は穴穂皇子を討とうとしますが、逆に捕まえられてしまいます。

そして木梨軽皇子は伊予国へ流罪となるのです。

伊予国へ旅立つ前に皇子と衣通姫の間で歌のやり取りが交わされますが、これが和歌三神と呼ばれる元となりました。

長い月日が過ぎ、しびれを切らした衣通姫はついに皇子の元へ。

再会を喜び愛し合ったものの、間もなく二人は自害します。


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少々解説を加えます。

◎書紀では流罪されたのは衣通姫の方。允恭天皇崩御後は穴穂皇子と木梨軽皇子が戦を行うが、木梨軽皇子は追い詰められて自害したと記されています。

◎その書記では忍坂大中津比売命の娘ではなく妹として登場、名は「弟姫(オトヒメ)」。

◎この話の内容そのものが架空のものであり、木梨軽皇子と穴穂皇子との皇位継承戦争に付会されたものではないかと考えられています。

◎和歌三神と称されますが、実際に詠んだ和歌は二首のみ。取り立てて素晴らしい技巧もないものです。
これは紀伊国の玉津島神社が鎮座するところがかつて「稚の浦」と呼ばれており、それが転じて「和歌の浦」に。
当社では衣通姫も祀られていて、いつしか和歌の神となってしまったようです。



紀伊国の玉津島神社



◎小野小町は実は美女ではなかったかもしれないというのが実話。これは紀貫之が古今和歌集の中で、小野小町の歌が衣通姫の流であると記したことから。
つまり歌が衣通姫の流れを汲んでいるとしたものが、いつしか容姿の美しさまで流れを汲んでいるとなってしまったもの。
小野小町が美女であったかどうかまでは触れていません。


◎衣通姫が祀られているのは
山城国愛宕郡 出雲井於神社(賀茂御祖神社 第二摂社)末社 橋本社 

大和国城上郡 玉津島明神 (生誕地)
大和国高市郡 玉津嶋神社
紀伊国名草郡 玉津島神社