丹生神社(栗栖)


紀伊国名草郡
和歌山市栗栖1
(P有)

■祭神
[主祭神] 日本武尊 宇摩志摩治命 丹生津比咩命
[配祀] 丹生津比咩命
[相殿] 天道根命


歴史の流れに大きく左右された神社。まず往古は「紀氏栗栖神社」であったものと思われます。すでにこの時点で紀氏の神社なのか、栗栖氏の神社なのかが分かりません。紀氏の祖神である天道根命、栗栖氏の祖神である宇摩志摩治命が祀られていたとされます。
◎次に平安末期に紀氏の末裔が粉河より丹生明神を勧請し、相殿として祀ったと続風土記にはあります。ところが数年後に書かれた紀伊国名所図絵には別々の社として描かれています。おそらく別々であったとするのが正しいのでしょうが、誤認の経緯等は不明。その後、明治の合祀政策により5社が合祀されました。
◎これとは別に社伝によると、第13代成務天皇の御代、社地の栗の巨樹に白幡が2つ懸かっており、その幡には「我ハ是 日本武尊ニテアリ 假リニ白鳥ト化シテ王法ヲ守護シ諸国ニ飛行キ 当所ニ休宿ノ因縁ニ今爰ニ顕現ス 当所ノ氏神ト成テ守護シ給ハン」との告文があったとかで、社殿を建て山縣明神と称したそうです。
紀氏が宇摩志摩治神を祀ったのは応神天皇の御代としています。
成務天皇の件は甚だ信憑性が乏しいものの、上古から何らかの神祀りが行われていたのでしょうか。そして紀氏と栗栖氏については、川を制した氏族と川の堤を造る氏族ということで、何らかの同盟関係があったのかもしれません。
◎なお天道根命は神武東征に先立ち名草郡に入植、皇軍を先導し勝利をおさめた功により日前神宮・國懸神宮を創建し当地支配を任されたとする紀氏の祖とされます。
ところが地元の伝承を丹念に調べ上げ、真の名草郡古代史を復元したなかひらまい氏はまったく異なる説を上げています。皇軍に勝利し追い返したのは名草戸畔を首長とする名草軍。その名草邑の人々が紀氏姓に変わっていったとし、天道根命は架空の存在であるとしています。
◎神武軍が大和を平定し大和王権が勢力を拡大するにつれ、当地へも支配が及んでいきますが、紀氏の中にも大和王権に取り付いた一族がいます。それが紀伊国造家や船氏ですが、紀ノ川と大いに関係あるのが船氏。当社との接点が見いだせます。