わが家の歴史~「天安門事件」を記す | yuruyurumamaのひとりごと~ふたたび

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10年近くやってきたヤフーブログから引っ越してきました。
また新しい世界で日常を書いていきます。

 

 

6月4日

 

毎年この日になると思い出します。

 

天安門事件

 

最近はニュースでもあまり

報道しなくなりましたが

長男から送られてきたネットニュースを見て

あの時の記憶が呼び起こされました。

 

(この自由の女神は夫は車から見ています)

 

一年ぶりに手帳を

書棚から取り出してみました。

 

 

1ページ目には

 

 

平成元年 1989年3月2日

朝陽区 斎義園前の友諠商店にて購入

 

と書いています。

 

北京に到着してひと段落し

そこでの生活を日記として

書き留めておこうとしたのか?

 

と思ってページをめくると

いきなり英会話が出てきました。

 

今まで気づきませんでした💦

 

 

Do you like China?

Do you like living here?

 

などの文章を書いています。

 

でもどうして中国語じゃなくて英語?

 

どうも記憶にないのですが

もう一度英語を学びなおそうとしたのかも。

 

 

同じアパートメントに

中国人と結婚したアメリカ人女性がいて

その方に子供たちに英語を

教えてもらおうとしたことがあり

そのついでに自分も、と?

 

34年前の記憶はもう

かすんでしまっています。

 

 

次のページには

きな臭くなってきた北京の様子を

夫が記録していたと思われるプリントが

ホッチキス止めされています。

 

日付は5月18日。

 

天安門事件の2週間ほど前からの

色々な政治的な動きを書いています。

 

 

6月2日

この日の出来事として~

 

「午前2時、窓の外を見ると長安街を

西に向けて兵士が、無数とも思えるほどの兵隊が

暗い道を無言で歩いていた。

手には何も持たず、ヘルメットらしきものも

つけていないようだ。

白い上着に黒っぽいズボンをはき、肩か背に

荷物を持っていた。

あのような異様な光景を見たのは

初めてだ。」

 

 

 

翌、3日。

 

午前1時半。〇〇(夫の名前)の帰りを待ちながら

長イスに横になっていたら、ゴーッという

耳慣れない音が近づいてきた。

ひょっとしたらと思って外を見てみたら、なんと

長安街を戦車が猛スピードで走り抜けていった。

その後ろから200~300台の自転車が追いかけていて

まるで自転車から追いかけまわされ

逃げ惑っているかのようだった。

 

 

この頃から夫は仕事の都合上

日本領事館の方と行動を共にしなければならず

帰宅が大変遅くなっていました。

 

 

わが家からこの

ヘリコプターも見えました。

 

このあたりからいよいよ緊急事態になり

自分たちの身の安全のため

無用な行動はしないよう連絡が入りました。

 

天安門ではここに貼り付けている

写真のような事態が

展開されていたのです。

 

 

5日(月曜日)

 

昨日の父母連絡網により学校は休み。

昨夜、12時過ぎ軍用トラックや多数の戦車が

走って行った。夜空は雷が青白い光が時々光り

雨の中を轟音を響かせながら走るさまは

いつ見ても異様な光景。

 

 

午前8時ごろやっと日本から電話。

やはりなかなか通じなかったようだ。

 

日本では様々な情報が飛び交い

家族はとても心配していたみたいです。

 

まあ、こちらの方は

物珍しさで興奮していて

まだ身の危険を感じるほどでは

ありませんでした。

 

そしてこの後から情報が錯綜し

外国人居住地区が閉鎖されるとの噂(?)が飛び交い

そこから生活が一変してしまいました。

 

6日(火曜日)

 

昨夜は緊張したが予想に反して何事も起こらなかった。

今朝は8時起床。〇〇からの連絡で調査団帰国と

時を同じくして私たちも一時帰国ということになるかもしれない。

お昼はぜんざいを作った。

夜はコックさんが冷凍しておいたくれたトンカツを作ろう。

10日帰国としてあと4日分の食糧があればいい・・。

まず大丈夫だろう。温水も出ないしこれで食糧確保が難しければ

ホテルに移動してもいいと○○さんと言っているが

お湯がでなくてもホテル暮らしよりこちらの方がいい。

 

 

 

7日(火曜日)

 

朝方、軍隊が西へ行ったとか。

相変わらず橋の上には戦車がこちらを向いている。

今、数十台のトラックが兵士を満載して

通り過ぎて行った。何だろう。

 

(中略)

通り過ぎた後、市民が道に出てきて

薬莢を拾い集めていた。

こんな時に限って8ミリが写せない。残念!!

〇〇〇(長女)の同級生のほとんどが

すでに帰国しているらしい。

 

そして午後3時55分。

自宅を出てマイクロバスにのり

空港近くのホテルに入ったところから

日記が始まっています。

色々な情報が飛び交っていて

状況はとても悪く一刻も早くこの国を出たいとも。

 

ここに至るまでのことも書いていますが

長くなるので割愛します。

 

そして最後のページには

 

午前12時。今、機内にいる。JAL〇〇便。

北京を午後10時46分発。TYO着午前2時10分の予定。

遅い夕食も終わり、これを書いている。

斉家園の我が家はどうなっているだろう。

あとの事はコックの李さんにお願いしてきた。

何週間、何か月間になるかもわからない留守を

きちんとしてくれるか心配。

大したものは置いてきていないけど

やはり心残り。

 

 

ここで日記は終わっています。

 

 

 

 

そして、何度か書いたかと思いますが

天安門事件から四か月後の10月

夫とふたりで北京に行って

残務処理をしました。

 

 

34年前の話でした。