BoA、デビュー秘話 | K-POPちょっといい話

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BoAは1986年11月5日京畿道南楊州市で、2男1女の末っ子として生まれた。BoAは歌唱力、ダンス、ルックス3拍子を備えたアーティストであり、「アジアの星」というニックネームを持つ。

BoAは2000年8月25日満13歳で「ID; Peace B」で韓国デビュー、8月27日「SBS人気歌謡」を通じてデビューステージを披露した。2001年5月30日には「ID;Peace B」日本語版で日本デビューした。2008年10月21日には「Eat You Up」で米国デビューした。

SMエンタと練習生契約

BoAのオーディションはSMエンタ内で伝説のように語り継がれている。BoAは、ストリートダンスに熱中していた兄のオーディションについていき、京畿道九里市のデパートで開催されたB-Boyコンテストのステージに上がって激しいダンスを披露、芸能プロダクションから名刺を15枚以上受け取った。その中にSMがあった。そして、SMオーディションを受けに行った。BoAのオーディションを見たSM関係者はダンスでキャスティング、イスマン代表は歌でキャスティングした。SMオーディションは通常ダンスか歌のどちらかでキャスティングされるが、BoAは両方でキャスティングされた珍しい事例である。ちなみにSMの先輩歌手であるSESのメインボーカル パダもイスマンに歌にキャスティングされたという。

 

 

当時BoAは小学生だった。後にBoAはイスマンに「なぜ自分をキャスティングしたか」と聞いたところ、イスマンは「笑うところが綺麗」という意外な返事をした(2012年06月05日放映「キムスンウの常勝疾走」)。さらに、イスマンは「BoAという子に出会えてやっとアジアに出ることができる」と語った。BoAは後に「当時まだ11歳だったので、そんなに大きな野望は持っていなかったが、リーさん(イスマン)が道を広げてくれて、自分も一緒に歩むことができた」と話した。


 

BoAは1998年から2000年まで約2年半を練習生として過ごした。SMの社屋はソウルが、BoAの家は当時京畿道南楊州市だったから毎日バスで往復2~3時間かけて通い、トレーニングを受けた。さらに当時のSMは施設も非常に立ち遅れていて、雨漏れの建物でダンストレーニングを受けて、鏡がないから窓ガラスに映る姿を見て練習するなど、色々な面で劣悪な環境であった。


 

韓国デビューが期待外れに

約3年のトレーニングと準備期間を経て、2000年8月1集「ID:Peace B」を発売し韓国でデビューした。

 

 

BoAのデビューはSMにとって大規模プロジェクトの一つだったが、それはSMにとって念願だった海外進出の礎であったからだ。BoAは休暇期間中に日本で語学研修を受け、現地アナウンサーの家でホームステイをしながら日本語に堪能になるよう教育された。さらに1集アルバムにはキムヒョンソク(韓国の国民的作曲家。JYPパクジニョンの先生)、ユヨンジン(SMのメインプロデューサ)、パンシヒョク(後にビッグヒットを立ち上げ、防弾少年団のプロデューサに)、キムジョハン(韓国に本格的なR&Bを普及させた歌手)、パクジニョン(JYPの歌手、プロデューサ)など今聞いても大物の作曲家とレコード製作陣が大挙投入されて作成された大規模なプロジェクトであった。

 

ミュージックビデオも映画「シュリ」のカンジェギュ監督が参加して話題となり、後に明らかになったところによると約30億ウォンがBoAのデビューにかかった費用だった。しかし、「ID; Peace B」は難解な曲のスタイルとユヨンジン特有の異様な歌詞により拒否感を呼び起こし大ヒットとはならなかった。最高成績はSBS人気歌謡でピンクルの「NOW」と1位候補に上がっただけだ。販売量は177,612枚で、その年デビューした新人の中で最も多くのアルバムを売った。しかし、この後もヒット曲に恵まれず、日本デビューに備えることになる。

avexと契約し日本デビュー

BoAの日本デビューはSMの重要なプロジェクトの一つであった。SMは過去SESの失敗ノウハウを分析してBoAの日本デビューを準備した。大型レコード会社avexと契約をしてショーケースを開催し、デビューを準備していくことになる。当時avexは所属歌手だけで200チームを超え、スター級は上位10%程度だけだった。つまり、大型レコード会社と契約しただけで成功というわけにはいかなかった。

 

avexは「韓国語、日本語、英語に堪能でダンスと歌が完璧な天才歌手」という広報戦略を立てBoAをプロモートし始める。しかし、2001年7月発売された2枚目シングル「Amazing Kiss」まで大きな反応がなく、BoAはホームシックにかかり壁を見て会話したり、非常に寂しい想いをしたという。この当時宇多田ヒカルの「time will tell」を聴きながら力を得たという。

日本で人気に、そしてブレイク


2001年12月に発売した「気持ちはつたわる」から徐々に反応が出始めた。この当時のBoAはNHKが主催するスーパードリームライブに招待され、生歌と激しいダンスを披露し、視聴者の反応を得た。放映後NHK芸能局に「あの幼い歌手は誰か?」という問い合わせの電話が殺到したという。この時期から日本の所属事務所もBoAに可能性があると判断し、有名CFのBGMとしてBoAの歌を入れるなど力を入れ始めた。有名な「LISTEN TO MY HEART」も有名携帯電話CMに導入された曲だ。

 

 



 

BoAは韓国2集「No.1」発売準備のために韓国にいたが、日本で「LISTEN TO MY HEART」がオリコンデイリーチャート3位に上がり、「早く日本に帰ってこい」という連絡を受ける。当時BoAは順位が信じられずオリコンのホームページに接続して順位を確認したという。そして、2002年3月に発売された日本正規1集「LISTEN TO MY HEART」のアルバムが90週間以上のチャートインをし恐ろしいロングランを見せ、ミリオンセラーに準ずる販売量を得て、BoAの大ブレイクがスタートする。この後、2002年8月には夏にふさわしいダンス曲「VALENTI」を発売し、最高のヒット曲となる。

 

 

韓国でもスターに

 

BoAは2002年4月12日韓国2集「No.1」をリリースした。エキサイティングなビートとパワフルなダンスは韓国大衆にも大きく受け、韓国でもヒットすることになる。10代と20代を中心に男女の区別なくファン層を確保し、時事番組や新聞にも常連出演して、さまざまな世代の認知度を得る。2集は56万枚を販売し、彼女の韓国最大のアルバム販売記録を達成した。

 

 

 

<終わり>