まずは名刺獲得レースから。まだコンプライアンスとか個人情報保護の観点に緩かった時代の話ね。出社して、始業時間までの間に配る名刺を用意する。職場近くのキンコーズで印字した厚紙を貰い受け、デスクで名刺大のサイズに切り分ける。1日に配る、300枚の手作り名刺。
上司が大きな地図を用意する。所属する係が異なる同期と3名、担当するエリアを分けられる。このライバル2名がとにかく手強かった。女性社員。名刺獲得なんて、如何に相手の懐に入るかが勝負じゃないか。可愛い女の子と、暑苦しい男。貴方なら、どちらに気を許すだろうか。
始業に際して、東京本社の全社員が円を描いて、社訓を大声で復唱する。同期の女性社員が、眩暈で倒れていたっけ。職場で用意された大きなバッグを携えて、すぐに目的地に向かう。午前の終わり、午後の3時、5時と計3回、電話で上司に獲得数を報告。都度必ず怒られる。
大小様々なビルに飛び込む。エレベーターで最上階まで上がり、そこから地上階まで階段で降りては各フロアを回る算段。と、ここでアクシデント。階段が外にある変な造りのビル。階段に出る。重い音で閉まる扉。オートロック式。外から開けられない。地上階まで降りようとする。
が、2階相当で階段が終わっている。まずい。閉じ込められた(屋外に)。上司に電話を入れる。まさかの「飛び降りろ」をいただいた。鉄柵を乗り越えて、カバンを放る。ついで我が身。歩いているサラリーマン連中はさぞ驚いたことだろう。不思議と怪我はなかった。と信じたい。
最初の2週間でコツを掴む。目標枚数はそれに応じて上がっていく。夕方の報告時点で、100枚に達していないと怒鳴られた。100枚を超えるようになると、150枚に上方修正された。達成すると、隣の同期は更に5枚上回ってるぞと発破を掛けられる。名刺が切れると手書きで用意。
時間的に、飛び込むオフィスビルが無くなると、次は居酒屋にターゲットを変更。楽しく飲んでいるところに、営業マンの名刺交換は邪魔。何度も店員から追い出される。同期の中には、首根っこを掴まれたケースもあるようだ。渋々社内に戻る。また怒鳴られる。1位じゃねーぞと。
上司に獲得した名刺を確認してもらう。珍しい名刺が入っていた。良いじゃねーかと、引き抜こうとする。その名刺は、頭を下げ続ける僕に根負けしたのか、電話を掛けないことを条件に貰った名刺だ。説明するが、物凄い剣幕で怒られた。上司曰く、そこに価値があるんだよ、と。
上司と書いたが、3名いる。地図を擦ってエリアを配分するのは課長職の男性社員。仕事が優秀で雲の上の存在だったが、まだ4年目の若手。電話で僕らの報告を受ける上司は、エリアマネージャーの強面女性。すぐに沸点に到達するから、一日に何度も怒られた。怖かった。
最後の上司は、貰ってきた名刺を確認する役回り。当時の支店長補佐。現、社長。面構えからして怖かった。怒られないよう萎縮して目の前をやり過ごしていた。胃が緊張して、食欲が無かった。常に手足が震えていた。半年後、病院で付いた診断は「パニック障害」だった。

