甲斐駒ケ岳 | Poco a poco -難病と生きる-

Poco a poco -難病と生きる-

スペイン語の「poco a poco」は、日本語では「少しずつ」「ゆっくりゆっくり」という意味です。遺伝性による難病、脊髄小脳変性症を患っていると診断された2015年7月(当時34歳)以降、少しずつ身体が動かなくなる恐怖と闘いながら、今日を生きる僕の日記です。恐縮です。

趣味の一つに登山がある。

道具を揃えること総額30万円以上。

登ってきた山は数え切れず(否、そんなに多くはない)。

それが一昨年の一件以来、ピタリと止んだ。

 

まだ難病発覚前の2014年8月某日、僕らは白馬岳にいた。

一泊二日の山小屋泊の工程の終盤、僕の膝が死んだ。

レスキューの世話になり、後日、長野県警から請求書が届いた。

忌まわしき記憶が、脳裏に焼き付いて離れない。

 

 

以降、苦手意識が芽生えてしまった登山である。

払しょくするには、成功体験で塗り替えるしかあるまい。

とは言え委縮する僕を他所に、日帰り登山計画が組まれた。

挑戦するのは、南アルプスの北部の雄、甲斐駒ケ岳(標高2,967m)。

 

マイカー規制が敷かれている為、市営のバス(5:15発)に乗り込む。

金曜深夜2:40に自宅を出発、そこから仲間を次々にピックアップ。

中央道は甲府昭和ICまで飛ばしに飛ばして何とか始発に間に合う。

バスを乗り継ぐこと2時間弱、標高の高さと比例して紅葉が色づく。

 

 

北沢峠(標高2,032m)をバスで降り立った時刻は7:10。

ここから登山スタートとなる。

幸運なことに、晴天に恵まれた。

登山では特に、天気によりモチベーションが大きく左右される。

 

僕の他に仲間が3人、いずれ劣らぬ健脚揃い。

いつもの調子なら、ガイドブックの7割程度の所要時間でクリアする。

登りにおいて絶対的な自信を有していたはずの僕が、足を引っ張る。

この回転性の眩暈は、これはきっと脊髄小脳変性症特有のやつだ。

 

 

ペースがなかなか上がらない。

歩いては休み、転んでは休みを繰り返す。

一人だけ、肩で息をするようになる。

これまでは、前の登山者を追い抜いて当たり前だったのに。

 

先頭を歩くペースメーカーの男性友人は、僕と幼馴染み。

学生時代のサッカーや陸上で培った体力をベースに、今も健脚。

僕の後ろの女性2名は、大学時代からの友人関係である。

フルマラソンでは僕よりも速く、登山においてもガンガン歩く。

 

 

息も絶え絶え、やっとの思いで6合目まで到着。

圧倒的な存在感を誇る、甲斐駒ケ岳の山容が迫る。

ここ駒津峰(山頂)は標高2,752m。

その先の甲斐駒ケ岳の山頂まで、往復2時間半は掛かる計算。

 

登山のゴール地点は、山頂でない。

僕の折り返し地点はここである。

仲間3人に先を急がせ、僕はしばらく休ませてもらう。

富士山や北岳、仙丈ケ岳など、360°の大パノラマが美しい。

 

 

参考タイムよりも20分ほど早く、仲間が戻ってきた。

登山の醍醐味である山グルメに、今回は松坂牛を使った牛丼。

自前のコッヘルやバーナーが活躍する。

お味はもう、言わずもがな(4杯お代わりしてしまった)。

 

ここから苦手な下山であるが、これが絶望的な物語の幕開けだった。

サスペンションの壊れた車のように、僕の膝がまた死んだ。

ストックポールを突いても、脚が言うことを聞かないのだ。

前に後ろにと何度も転倒する度に、登山は終わりだなと言い聞かす。

 

 

ガックガクに震え続ける膝を、仲間たちがマッサージしてくれる。

更には女性陣にザックを預け、僕は友人男子の肩を借りる。

レスキューを呼ぶか、仲間三人はバスと電車で帰ってもらうか。

自力で立つことさえできずして、バス停まで時間との勝負である。

 

結果、最終便バスに間に合ったわけだが(出発しかけのギリギリ)。

ここまでの過程において、仲間の援護におんぶに抱っこだった。

両足のみならず、両手まで攣った時は、もうダメかと思った。

満身創痍の中で、人間の底力と仲間の協力姿勢の強さを見た。