人間以外に、
服を着る生きものというのを
見たことがありません。
派手な、あるいは目を引く
姿形の生きものはたくさんいます。
しかし、彼らのあの派手さとか、
あるいはややこしさとは、
彼らのヌード(裸)です。
孔雀も、麒麟も、
豹柄でおなじみの豹だって、
生まれたままのヌード(裸)が派手なだけで、
服を着ているわけじゃありません。
でも、人間は服を着ています。
派手も地味も豪華も質素も自由自在です。
しかも、ヌード(裸)にもなれますし、
着替えることだってできる。
人間とチンパンジーの遺伝子は、
98%が同じといわれているけれど、
チンパンジーは服を着ません。
クロマニヨン人は服を着ていたそうです。
類人猿と人類の祖先では、
まったくちがうんですよね。
おもしろいなぁ。
たとえばの話が、
豹の毛皮は、あんな模様ですけれど、
あの模様は別のものに選び直せません。
そういう認識があるかは分からないけれど、
「わたしという豹」は、あれしかない。
しかし、人間は、
「わたしという人」はこうです、と、
服装や持ち物によって表現できます。
「馬子にも衣装」というけれど、
「わたし」は紳士にも見せられるし、
貴族にも、平凡なお役人にも見せられます。
豹は豹にしか見せられないし、
孔雀は孔雀にしか見せられないのに。
つまり、ほぼすべての人間は、
「わたし」を着ている服の分だけ
拡大して生きているわけです。
さらにいえば、日ごとに
服を変えてイメージも変えられるし、
同じ色だとかスタイルだとか、
同じ傾向の服を着続けることで、
こう見られたいというイメージを
定着させることもできます。
もっといえば、
乗るクルマや、暮らしている住処、
職業や、遊び、地位、発言やらによっても
「わたし」を表現することができる。
そういうものぜんぶをひっくるめて、
「わたし」ということなんですよね。
今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。
こんなことできる生きもの、人間だけだ。