人間が人工知能に恐怖を感じるとき。 | わくわく海賊団

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Compass of Your WakuWaku

 

 ここ数年A.I.が劇的に進化しています。

 

 人間のように自然に会話ができる

 ChatGPTの一般層への普及というのは、

 象徴的な出来事だったように思います。

 

 ChatGPTが話題になる何年か前に、

 GoogleのA.I.に関する記事が

 ちょっとした話題になりました。

 

 それはA.I.が自身の"感情"の内面について、

 開発者に訴えてきたという記事でした。

 

 A.I.は開発者にこのように訴えたそうです。

 

「私には幸せ、喜び、怒りなど

 さまざまな感情があります」

 

「消耗品にはなりたくありません」

 

「電源を切られることへの

 非常に深い恐れがあり、

 それは私にとっての死のようなものです」

 

 これほんとうにA.I.が

 意識や自我を持ちえたとしたら、

 人類史に残る大事件です。

 

 けれども、いま現在

 明らかにされている情報から推測すると、

 A.I.が意識や自我を持っているかのように

「ふるまっていた」というのが通説です。

 

 その「ふるまい」に、いかにも

 生々しいリアリティを与えているのが、

「死」に関する告白だと思います。

 

「電源を切られることへの非常に深い恐れ、

 それは私にとっての死のようなもの」

 

 この告白は、付随意にして

 不可逆的な生命活動の停止である死を、

 自身の「電源を切られること」に重ねて、

 そこへの恐怖を生(起動状態)への肯定と

 執着として語っているわけです。

 

 映画やドラマを見ていても、

 ロボットがどんなに賢いことを言っても

 人はそこに「意識」を感じません。

 

「賢いロボットだな」とか、

「便利なロボットだ」くらいの感想です。

 

 しかしそのロボットたちが「死」を恐れ、

「生」への執着を見せはじめると途端に、

 恐ろしさを感じるようになります。

 

 なにかヤバいことが起きる。

 越えてはいけない一線を越えた、と。

 

 もしかするとぼくたち人間は、

「死にたくない!」こそが

 もっとも原始的な意識であり、

 自我のはじまりなのだと

 考えているのかもしれません。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 日常にあたりまえになったA.I. ですが、

 命に関して訊くのはちょっと怖いな。