どんな表現でも、どんなことばでも、
どんな教えでも、どんな情報であっても、
「受け手」がいなかったらなにもありません。
千年にひとつの研ぎ澄まされた発信も、
だれにも受けとめられないままであれば
意味も価値も生まれぬまま藻屑と消える。
なにかのかたちで残っていれば、
「受け手」が見つかる可能性はあるけれど、
見つけた者がクズだと思って捨ててしまえば
結局なにもなかったことになってしまう。
いまの時代、人びとは精一杯に
口達者なり正論をしゃべろうとします。
でも、たぶんほんとうは、
口の前に育てるべきは聴くための耳であり、
じっと見るための目なんじゃないかな。
どちらも「受け手」としての力の元です。
質のいい「受け手」が育つことで、
質のいい「送り手」が出てくるのだと思う。
「送り手」の「送りもの」が理解され、
もっといいものが豊かに増えていく。
土も水もないところで
芽が出てこないのと同じように、
質のいい聞き手(受け手)がいないと
なにも生まれないのだと思います。
今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。
質のいい受け手になるために必要なのは、
なにかの資格や才能というより、
それを「たのしもうとする気持ち」と
「ひとを敬おうとする」ことだと思います。