似て非なるふたつの我慢 | わくわく海賊団

わくわく海賊団

Compass of Your WakuWaku

 

 これまで何度も書いてきたのだけれど、

 我慢を美徳とする考え方のおそろしさです。

 

我慢より欲望の輪郭を知ること。

 

 でも、こういう話をすると、

 理不尽なことに耐える忍耐力も

 教育として必要だという意見をもらいます。

 

 これについては、

 我慢の定義をそろえていないかったことが

 ひとつ問題としてあったんだろうなと。

 

 我慢することや苦痛を乗り越えること自体に

 意味がないとは思っていません。

 

 問題だと思っているのは、

 他人から強制された我慢や苦痛です。

 

 目的のための自発的な我慢と、

 他者から強制された我慢とでは

 まったく別の体験になります。

 

 強要された我慢とじぶんで選んだ我慢、

 どちらも我慢と表現してしまっているので

 議論が混乱してしまうことがあります。

 

 このふたつは明確に

 区別したほうがいいと思っていて、

 ひとの内側で起こっていることは、

 大きく異なる体験だと思います。

 

 ひとの学びを促進し

 成長を促す効果が高いのは、

 じぶんの意思で決断し、

 やりたいことのためにしていると

 感じられるときの我慢です。

 

 それと、もうひとつ。

 

 我慢強くなったように見えるけれど、

 じつはそれは"学習性無力感"と呼ばれる

 状態であることがよくあるそうです。

 

 これは忍耐力がつくとは似て非なるもので、

 諦めや無力感がその特徴なんだそうです。

 

 他者から強制された我慢ばかりしていると、

 じぶんがほんとうに欲しいもの(目標など)が

 わからなくなってしまうんだと思います。

 

 他者から強制された我慢で、

 ひとが成長するっていうことは、

 やっぱりあんまりないと思う。

 

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 我慢することも、

 苦しみを乗り越えることも、

 じぶんで選択したうえでの経験であればこそ

 価値あるものになるのだと思っています。