「おまえは、ほんとバカだなぁ」
「バカ…!?!?
失礼じゃありませんか!?」
「おいおい。
こっちは〈かわいいヤツ〉
という意味で言ったんだよ!!」
「バカは人格を否定する言葉です!!」
「…おまえ空気読めよ。
おれにおまえの人格を否定する意図が
あったと思うのか!?」
こういうトラブル、
結構あるみたいですね。
察することをコミュニケーションで
大切にしてきた人たちと、
明文化されていないルールのようで
わかりづらい、と否定的な人たち。
してほしいことがあるなら
はっきり言葉にして伝えてほしい。
なぜわざわざ、
誤解の生みやすい方法をとるのか
理解に苦しみます、と。
契約書は何でも言葉にしてあります。
そこに書いていないことは、
〈なかったことに〉されても
文句が言えないわけですよね。
ホットコーヒーを頼んでも、
「熱いですよ」と伝えなければ
わからないじゃないと怒られます。
冷蔵庫にだって、テレビにだって、
「それ以外の使い方をしないで」と
書いていないとダメなんだ、と。
こうやって理詰めでやりあったら
察するコミュニケーション派は
惨敗するんだろうな、たぶん。
ただ、言葉の余白というのかな、
そういう部分を否定して
すべて言葉にできるんだと
信じている人と仲良くやる自信は
正直なところ、あんまりないかな。
ぼくは、言葉の余白の部分で
人を好きになったりしますから、
そこを否定されるのはつらい。
でも、そういうのって、
うまく説明できないんですよね。
理屈でいえば、明文化したほうが
便利であることは間違いないですし。
最近、思ったのは、
1〜2歳の幼児って
言葉をほとんど話せないけれど
もの凄く空気を読むんだな、と。
やってはいけないこと。
推奨されていること。
おこられている。
ほめられている。
たいせつに想われている。
言葉がなくても、
全身をつかって状況を把握し
理解しているわけですよね。
あえて、黙る。
それは一見、
消極的な態度のように見えて、
もの凄く積極的な
コミュニケーションの姿勢
なのかもしれないな。
今日も、「わくわく海賊団」にきてくださってありがとうございます。
言葉が悪いんじゃない
と、思っています。
う〜ん、たとえば、
無口な高倉健さんのひとことの
情報量って、もの凄かったとか。