人間の能力のリミッターが外れる
代表的な場面というのは、おそらく
「火事場の馬鹿力」でしょう。
それゆえに、恐怖が
リミッター外しのきっかけだと
誤解してしまいそうです。
でも、恐怖する状態を
人が故意的に(わざと)つくって
なにかを達成できたことって
はたしてあるのかな、と。
ひと昔前に流行った
鬼コーチによるスパルタ指導だって、
つまり、「死ぬ気でやれ」と
発破をかけられることで、じぶんの
限界を超えるという方法です。
今でも、たとえば
サッカーの国際大会で
「負けたら死刑」「死ぬ気でやれ」
みたいな国があるけれど、
恐怖で追い詰められることで
力を発揮する方法だけでは
勝てないことがよく分かります。
人を脅したり、
追い込むという方法だけでは、
「火事場の馬鹿力」は、
発揮されないんだと思うんです。
「火事場の馬鹿力」は、
命の危険だけではなくて、
「じぶん以外のだれかの存在」が
おそらく重要なんじゃないかな。
昨日の「規則(ルール)の話」も
そうですけれど(じぶんも含め)
恐怖というものを使って
何かをしようとする機会が
あまりに多い気がしています。
部下と上司と。選手とコーチと。
生徒と先生と。子と親と。
怒鳴ったり、
脅かしたりの方法では、
うまくいかないんじゃないかな。
恐怖を使うことで
目的が達成されればいいのだけど、
さて、思い返してみても
そういうことは、あんまりなくて。
それなのに、
まるで便利な道具のように
恐怖を多様しすぎて
いやしないかな、と。
「火事場の馬鹿力」の発動に
「人を想う気持ち」が
関係しているとするならば、
人が故意的に(わざと)
つくりだした恐怖では、
能力のリミッターは
なかなか外せなそうです。
と、いうことはですね。
恐怖というのは、
多様するほどに
便利なものではない、
ということなんじゃないかな、と。
今日も、「わくわく海賊団」にきてくださってありがとうございます。
補欠の気持ちが
わかってる選手は強くなるんです。
「あの先輩のために
自分は走らなきゃいけない」
「何かのために
自分はがんばらなきゃいけない」
そういう気持ちになれたとき、
能力は発揮されるんじゃないかな
と思うんです。
神奈川大学 陸上部監督 大後栄治