
会話翻訳アプリが凄いんです。
前回の記事で、そんな話をしました。
「機械を通して会話をしても、気持ちは十分に伝わらない。」
そんなふうに思っていたけれど、そんなことはなかった。
もちろん、じぶんのことばで直接話せたほうがいいけれど、
機械でだって、「伝えたい」という気持ちがあれば、
気持ちは十分に伝わるんだと学びました。
機械化、自動化、無人化をネガティブにとらえたくない。
「できるようになる」ことを必要にこわがらないようにしたいな、と。
でも、その一方で、やっぱり心配な部分もあるんです。
たとえば、翻訳アプリで会話をするとき、
アプリが聞き取れるように「標準語」で会話をします。
東京出身のぼくは気がつかなかったけれど、
地方出身の友達が、「方言」を「標準語」になおして会話するのを聞いたとき、
そのことに気がついたんです。
つまり、機械が音声認識するためには、標準語に極めて近い日本語が必要になります。
方言は、機械が聞き取ってくれないわけです。
そうなると、この種のサービスを受けたい人は、
「みんな同じ」の日本語を使わなくてはいけないわけです。
アプリを方言に対応させればいいのかもしれないけれど、
方言に対応させるためには、それだけコストがかかりますから、
やっぱりこの種のサービスからはなくなっていくように思うんです。
グローバルスタンダードだとか、均一化とかいわれるやつです。
進化したサービスは確かに便利だし、それはときに国境も越えるんだと思います。
でも、その結果、その国ならではのとか、
人それぞれの豊かさ味わい深さみたいなものがなくなってしまうような未来は、
すごくすごく、さみしいと思うのです。
今日もわくわく海賊団にきてくださってありがとうございます。
沖縄で知り合ったおばあと話をしたとき、
若い人たちはほとんど方言をしゃべらなくなったと言っていました。
世の中は便利になったけれど、「みんな同じ」にもなったっていう未来は、
なんだかつまらないなぁーと思っています。