わくわく海賊団

わくわく海賊団

Compass of Your WakuWaku

渋谷スクランブル交差点の賑わいと街並み

 

 ひと昔前は、趣味が

「人間観察」だと言う人が

 それなりにいたように思います。

 

 待ち合わせのカフェや、電車のなかで、

 他人(人間)がなにをしているのか

 ぼんやり眺めているのが好きという人たち。

 

 最近はそういう話を、

 ほとんど聞かなくなりました。

 

 趣味「人間観察」という言い方自体、

 あんまり耳にしなくなりましたものね。

 

 ぼくは、いまでも結構やります。

 

 音楽を聴くつもりで、

 AirPodsを持ち歩いているのに、

 まわりの会話に聞き耳を立ててしまう。

 

 あらためて文字にすると

 若干…というかかなり気持ち悪いですが、

 観察しているとさまざまな変化に

 気がつくことができるんです。

 

 たとえば電車のなかで寝る人は、

 ぼくが学生時代のころにくらべて、

 確実に少なくなっていると思います。

 

 昔はもっと大勢のおじさんが、

 朝の出勤時から寝ていましたし、

 降車駅で慌ててガバっと起きる姿を

 何度も目にしてきました。

 

 なぜ、電車で寝る人が減ったのか。

 

 治安が悪くて、

 スリが増えたからでもなさそうです。

 原因はやはりスマホでしょう。

 

 スマートフォンは、

 紙媒体との接触時間を減らすのみならず、

 純粋に睡眠時間を減らしているのでしょう。

 これは自宅での過ごし方も含めてです。

 

 そしてこの10年ほどのあいだで、

 スマホを横に見ている人が圧倒的に

 増えたことにも気づかされます。

 

 それくらいコンテンツが、

 動画中心になっているのだということを、

 体感できる瞬間が電車内にはあります。

 

 人を(直接)見る時間が減って、

 画面を見る時間が増えたということを、

 いちばん体感できる場所が、

 電車なのかもしれません。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 思っている以上に、

 いま世の中は動画なのかもしれない。

光る花と球体のオブジェ

 

 その花にあたっている光が、

 花のすがたを見せてくれています。

 

 光のないところでは、

 花はそこにあっても見えません。

 

 どんなふうに光があたっているのか、

 レンズを通して記録する装置があります。

 つまり、カメラです。

 

 カメラで撮られた花は、

 花そのものというより、

 花にあたっていた光の記録です。

 

 花を絵に描くときも、

 描く人が見ているのは、

 花そのものだけじゃありません。

 

 花びらの縁に反射する光や、

 茎に落ちる影、風で揺れた一瞬のかたち…

 

 でも、その光はいつも

 そのまま描かれるわけじゃない。

 

 意識されることもあれば、

 忘れられることだってあります。

 なかったことにされることもある。

 

 どこを強く描いて、どこを省くのか、

 どんな線でどんな色を残すのか。

 

 そこから先は、

 もう描く人の勝手なんですよね。

 

 人の目や手は、

 思っている以上にでたらめで、

 個性的です。

 

 だから描かれた花は、

 花であるようでいて、

 どこかちがうものになります。

 

 それは花そのものというより、

 その人が見た花の幻みたいなものです。

 

 実際の花と、描かれた花は、

 ほんとうは、ものすごくちがいます。

 

 絵のなかにあるのは、

 花を見て、それを描こうとした人の

 視線や癖や、手の動きです。

 

 文章もたぶん同じだと思います。

 

「花が咲いている」と

 ことばを並べたからといって、

 なにを言っているのかが

 決まるわけじゃない。

 

 花の話をしながら、

 喜びのことを書いているかもしれないし、

 別れのことを書いているかもしれない。

 あるいは、人間のことかもしれない。

 

 絵や文章や音楽といった表現は、

 現実をそのまま写すものではなく、

 なにかを見たり聞いたりしたときに、

 人の内側が露わになるものだと思います。

 

 人は直接言えないかわりに、

 花やら景色やら音やらをかりて、

 いろんなことを伝えようとします。

 

 表現というのは、

 人間のすばらしい隠しごとであり、

 どうしようもない性分なのだと思います。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 花が写っているようで、

 人が写っている。

個性も欠点も磨けば強みになる

 

 じぶんには個性がない。

 

 そんなふうに思ったこと、

 だれもがあるんじゃないでしょうか。

 強烈な個性の集団のなかにいると、

 そう感じることがあります。

 

 取り柄がない気がする。

 これといった強みがない。

 

 でも、よく考えてみると、

 個性がないなんていう状態が、

 ありえるわけがないんですよね。

 

 なぜなら、人にはかならず

 欠点や弱点と呼ばれるものがあるからです。

 

 得意じゃないこと、苦手なこと、

 うまくできないこと、避けてきたこと、

 それらは全部、立派な"ちがい"です。

 

 そしてその"ちがい"は、

 ほかのだれかと全く同じかたちでは、

 存在しないものなわけです。

 

 個性というのは、

 優れていることではないですよね。

 むしろ歪んでいるところ、

 偏っているところ、ズレているところ、

 訛り(なまり)みたいなものでしょう。

 

 本人は、

「これ、変かな?」と思っているけれど、

 周りの人は、そこをちゃんと覚えている。

 むしろ、そこしか覚えていなかったりする。

 

 人並みの部分、無難な部分、

 ちゃんとしているところというのは、

 案外、記憶に残らないものです。

 

 記憶に残るのは、

 少し不器用な話し方とか、

 妙に慎重なところとか、

 変なこだわりとか、ズレた感覚とか、

 本人が欠点だと思っているところこそ、

 その人の輪郭が浮かび上がります。

 

 ゆえにすべての人が、

 個性の原石をすでに持っている。

 

 個性は新しく探しに行くものじゃなくて、

 すでにある欠点や弱点のなかに眠っている。

 問題はそれをどう扱うかだと思います。

 

 そのまま放っておけば、

 ただのやりにくさになってしまう。

 生きづらさになってしまう。

 コンプレックスになってしまう。

 

 でも、磨き方を変えると、意味が変わる。

 

 苦手なことが、専門性になることもある。

 不器用さが、信頼につながることもある。

 弱さが、安心感になることもあるでしょう。

 

 欠点というのは、

 きっと消すものじゃなくて、

 かたちを変えるものだと思います。

 

 地方も、組織も、店も、会社も、

 それは同じなんじゃないかな。

 

 不利な条件や弱点を

 追いつこうとして埋めていくと、

 結局、ほかと同じに近づいていく。

 そして、埋もれてしまいます。

 

 でも、その欠けている部分を磨くと、

「選ばれる理由」になると思うんですよね。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 たぶん個性って、

 足りないところから生まれるもので、

 磨くことで強みになっていくもの。