わくわく海賊団

わくわく海賊団

Compass of Your WakuWaku

青空と緑豊かな熱帯植物

 

 大人が子どもと一緒に丘に登って、

 頂上にある鐘を鳴らしに行くとします。

 

 大人はまっすぐ、

 最短の道を選んで登っていきます。

 

 ところが、子どもはちがいます。

 

 道の草花を摘んでみたり、

 小石を拾って投げてみたり、

 走って先に鐘のある頂上まで行って、

 親を呼びに戻ってみたりする。

 

 寄り道しながら、

 行ったり来たりをくりかえす。

 

 このイメージが、

 ぼくのなかでの"元気"のイメージです。

 

 たとえば、こころが疲れているときは、

 ゴールに向かってただ一直線に登るだけの

 大人のようになってしまっています。

 

 効率ばかり気にして、

 道の脇にある、おもしろさを見ていない。

 

 口うるさかったり、

 もしくは心配性な人は、

 寄り道する子どもの姿を見ると、

「危ない」と叱ったりします。

 

 つまらない人は、

 地図ばかり眺めて、ずっと

 "最短ルート"を探し続けている。

 

 だれかの背中におんぶされて

 登ろうとする人だったり、

「代わりに鳴らしてきて」と

 頼もうとする人もいます。

 

 でも、ほんとうの"元気"は、

 鐘を鳴らすことじゃなくて、

 歩くことや走ることそのものを

 たのしんでいる状態なんだと思います。

 

 たぶんそれが、元気の正体。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 元気とは、まっすぐ目的地に

 たどり着くことのできる力じゃなくて、

 寄り道をたのしめる余白のことだと思う。

雨上がりの空に現れた二重の虹と交差点を走る車

 

 人の感情をあらわすときに、

「喜怒哀楽」ということばがよく使われます。

 

 怒と哀は、すぐイメージできます。

 怒りと哀しみです。

 

 けれど、喜と楽のちがいはというと、

 どちらも前向きで、しあわせな気分を

 あらわしているように見えますよね。

 

 おもしろい映画を観ているときの感情は、

「うれしい」でもあり「たのしい」でもある。

 

 そのちがいを、

 わざわざ分ける必要があるのでしょうか。

 

 けれど古代中国のえらい人は、

 わざわざ四つに分けたんですよね。

 

 その感覚が支持されて、

 令和のいまにも残っているなら、

 きっと意味があるはずです。

 

 これ、時間の流れで考えると、

 少し見えてくるような気がします。

 

「うれしい」は、やや瞬間的で、

 突発的な感情なんだと思います。

 

 久しぶりに友だちに会って、うれしい。

 

 これは会った瞬間の話であり、

 せいぜい会ってから数十分の話です。

 

 そのまま食事に行って、

 何時間も語り合ったとすれば、その時間は、

「たのしい」に変化していくと思います。

 

 つまり「たのしい」は、

 持続可能な感情なんですよね。

 

 だとすると、多くの「うれしい」には、

 なんらかの驚きが伴っているのでしょう。

 おしりに感嘆符のついた「うれしい!」が、

 うれしいの本来あるべき姿だと思います。

 

 だとすれば、いい映画や本のように、

 こころを動かすコンテンツには、

「うれしい」と「たのしい」がどちらも

 備わっているのではないでしょうか。

 

 瞬間的な驚きと、持続的なたのしさ。

 

 その両方が揃ったとき、

 ぼくらは「おもしろい」と感じる。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 驚きと、たのしさ。

 その重なり合う場所に、

「おもしろさ」は生まれる。

青空と積乱雲、謎の球体と緑の丘

 

 作品は「だれか」に届けるために生まれる。

 

 その「だれか」が曖昧のままでは、

 作品は宙に浮いてしまうような気がします。

 

 つくり手は、まず、

「届けたいただひとり」の姿を、

 こころにくっきり描くこと。

 

 そして、その相手のこころを動かす

 物語(作品)とはなにかを考えぬくこと。

 それが大事なんだと思っています。

 

 たとえばスタジオジブリの作品。

 

『風立ちぬ』は、

「堀越二郎と堀辰雄に敬意をこめて」

 そんな一文からはじまります。

 

 宮崎駿監督も、完成後に、

「ご子息に満足してもらえたことが、

 いちばんうれしかった」と語っています。

 

『千と千尋の神隠し』や

『崖の上のポニョ』でも監督が、

「この人に届けたい」と思う相手を描き、

 そこから物語を立ち上げていると、

 インタビューで話しています。

 

 結局のところ、創作とは、

「だれかに宛てた手紙」なんだと思います。

 

 しかし、それを言うと、

 かならず言われることがあります。

 

「特定のひとりに向けた手紙が、

 多くの人のこころを打つなんてことが

 ほんとうにあるのか…?」と。

 

 ぼくはあると思います。

 結婚式で新郎新婦が親に宛てた手紙に、

 会場全体が涙に包まれることがあるように、

 "特定のひとり"に深く届いたものが、

 いつのまにか大勢に届くことは、

 往々にしてあると思います。

 

 それが表現のおもしろいところですよね。

 

 今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。

 

 みんなに向けたメッセージで、

 人のこころを動かすのは至難の業…

 いや、そんなことできるのかな。